枚方支局から
読売新聞枚方支局  
中田 敦之(平成23年10月1日〜)

「ゆっくりでも一歩ずつ」 〜東日本大震災から1年の取材で〜 平成24年4月1日号
『世界一』の夫婦 〜ひとつの記事ができるまで〜 平成24年3月1日号
「あれから17年」〜阪神大震災の日に〜 平成24年2月1日号

「被災地取材を通じて」〜新年のごあいさつにかえて〜 平成24年1月1日15日合併号

「ワクワクする仕事」〜作文の題材は記者〜 平成23年12月1日号
「目の前が真っ黒!?」〜世界に挑む強さ〜 平成23年11月1日号
人の優しさに触れながら〜枚方支局に赴任して〜 平成23年10月1日号

読売新聞枚方支局  岡田 健彦(平成22年10月1日〜平成23年9月1日)   

北河内での忘れがたい思い出〜枚方支局を離れるにあたって
 平成23年9月1日号

乗り切りたい猛暑の夏〜「暑い街・枚方」で暮らして〜
平成23年8月1日15日合併号
悩ましい雨の取材〜今年も室内開催となった「ひら婚」などから〜
 平成23年7月1日号
心躍る高校野球取材〜春季府大会などを通して〜 平成23年6月1日号
記憶にとどめなければならない言葉と光景〜震災取材を通して〜 平成23年5月1日15日合併号
記事で力になりたい〜東日本巨大地震を取材して〜 平成23年4月1日号
パワーを感じるアイデア企画〜冬花火の取り組みを取材して〜 平成23年3月1日号
寒さの中にも印象深い取材の数々〜ひらかたハーフマラソンなどから〜 平成23年2月1日号
新しい年を迎えて〜今年も新たな出会いに期待〜 平成23年1月1・15日合併号
「ひらパー」、魅力の裏に戦略の巧みさ〜老舗遊園地の今を取材して〜 平成22年12月1日号
ブランド力強化に知恵絞る自治体〜寝屋川市の計画を取材して〜 平成22年11月1日号
縁ある新天地に期待〜枚方支局に赴任して〜 平成22年10月1日号

読売新聞枚方支局  安垣 勇気(平成21年5月1日〜平成22年9月1日)   

いじめをなくしたい〜寝屋川市の中学生たちが劇上演〜 平成22年9月1日号
高校野球の夏到来〜大阪大会の取材から〜 平成22年8月1日号

代表勝利に大阪も熱狂〜サッカーW杯の取材から〜 平成22年7月1日号
若手音楽家を見守りたい〜河島英五音楽賞を取材して〜 平成22年6月1日号
交流都市に思いをはせる〜枚方市がガイドブック発行〜 平成22年5月1日号
地元の声援、球児に届く春〜選抜高校野球大会を取材して〜 平成22年4月1日号

名俳優の素晴らしい人柄〜森繁久彌さんゆかりの人たちを取材して〜 平成22年3月1日号
走る楽しさを感じたい〜ひらかたハーフマラソンを取材して〜 平成22年2月1日号

新年気持ち新たに〜昨年の取材を振り返って 平成22年1月1日15日合併号

地元FM局に注目〜地元情報や災害情報充実 平成21年12月1日号
枚方に菊の季節到来〜ひらかた菊フェスティバル開幕 平成21年11月1日号
悲惨な交通事故をなくせ〜秋の交通安全運動を取材して 平成21年10月1日号
復興に立ち上がる人たち〜台風9号豪雨被害の佐用町取材から 平成21年9月1日号
Qちゃんに前途あれ〜高橋尚子さんを取材して 平成21年8月1日15日合併号
夏の観劇はいかが〜8月30日(日)に門真市民ミュージカル 平成21年7月1日号
読書のすすめ〜枚方で「ブックスタート」始まる 平成21年6月1日号

新しい出会い楽しみ〜枚方支局に赴任して 平成21年5月1日号


読売新聞枚方支局  
坂木 二郎(平成18年10月1日〜平成21年4月1日)
   

サバのへしこ〜ハンセン病元患者の思いは 平成21年4月1日号

元気の出る集い〜社会の中の難聴者・中途失聴者たち 平成21年3月1日号

見知った顔〜取材を通事って出会った人たち 平成21年2月1日号

牧野村の道標〜大正から昭和、 そして現代を見つめ続けて 平成21年1月1日15日合併号


振り込め詐欺をなくせ〜大東市での新たな取り組み 平成20年12月1日号
親の思い〜枚方市の押し花アート展覧会で 平成20年11月1日号
芸術とは?〜大阪市での病院コンサートで 平成20年10月1日号
いじめはなくせるか〜寝屋川市中学生サミット 平成20年9月1日号

燃料や物価の高騰〜福井県小浜市の元アメフト選手〜 平成20年8月1日15日合併号

酪農家の生活〜北海道などの畜産農家を取材して〜 平成20年7月1日号
記者の仕事〜ムコ多糖症と闘う家族を取材して〜 平成20年6月1日号
子どもたちの居場所〜フリースクール「とれぶりんか」を取材して〜平成20年5月1日号
こだわりの行事〜「枚方宿くらわんか五六市」がスタートから1年〜 平成20年4月1日号
食の安全〜中国ギョーザの中毒事件で〜 平成20年3月1日号
ふるさとを守れ〜外来魚問題を取材して〜 平成20年2月1日号
ガラスの校舎〜守口市立中学の学校新聞を60年ぶりに発見〜 平成20年1月1日号

全てを大切に生きて〜高校生たちのメッセージから〜 平成19年12月1日号
表現力の磨き方〜二つの小学校の授業風景〜 平成19年11月1日号
何の損害?〜枚方市の官製談合事件で〜 平成19年10月1日号
終戦記念日を迎えて〜広島と大阪の戦後〜 平成19年9月1日号
人生をやり直せるなら〜旧家での古文書発見で〜 平成19年8月1日号
子ども様の時代〜2件の遊具事故で〜 平成19年7月1日号
枚方宿への思い〜古くからの通りににぎわいを〜 平成19年6月1日号
とっさの行動 平成19年5月1日号
はなむけの言葉〜ええ記者になるんやで〜 平成19年4月1日号
先生の存在〜寝屋川市の教職員殺傷事件から2年〜 平成19年3月1日号
被災者たちへの応援歌〜阪神大震災から12年〜 平成19年2月1日号
世の中捨てたもんじゃない 平成19年1月1日号

何のための成人式?〜枚方市の来年の式典を巡るドタバタで〜 平成18年12月1日号
忠実と想像力 平成18年11月1日号
A列車で行こう 9・11 ニューヨーク追悼ジャズコンサートで 平成18年10月1日号
タイの図書館に込められた思い 平成18年9月1日号
戦後61年の夏に思う 平成18年8月1日15日合併号
1200kmを越える恋 平成18年7月1日
身近な縁が語るもの 環境保護の取り組みくから 平成18年6月1日
古の都・枚方を発信へ 平成18年5月1日
古き良き物に光を 旧宿場町活性化の取り組みを見る 平成18年4月1日
体験が伝えるもの 戦没者の妻たちの手記を読む 平成18年3月1日
広がれ支援の輪 平成18年2月1日
新たな目標に向かって 市民が主役の明るい年に 平成18年1月1日

最後のひらかた大菊人形「96年の歴史の先」 平成17年12月1日
「枚方の財産は人」 市民活動の広がりに期待 平成17年11月1日
守れ!子どもたちの安全 校内に児童たちの元気な声を響かせよう 平成17年10月1日
交野の「紙好き交流センター」などが 絵はがき作り 阪神大震災で受けた支援と激励への恩返し平成17年9月1日
平和を訴えかける戦闘機の残骸 交野市で戦後60年目の発見 平成17年8月1日15日合併号
「ひらかた大菊人形展」が今秋で打ち切り 鮮やかな菊による華麗な歴史絵巻も今年で見納め 平成17年7月1日号
枚方、交野で交通死亡事故が多発!ちょっとしたミスが取り返しのつかない大事故に 平成17年6月1日号
環境を守ろう!〜小さな取り組みできることから 平成17年5月1日号

広がれ!障害者にやさしい街づくりの活動〜進む車イスマップづくり 平成17年4月1日号

 


「ゆっくりでも一歩ずつ」 〜東日本大震災から1年の取材で〜   平成24年4月1日号

 病を患いながら、折り紙の創作や普及に努める枚方市の折り紙作家・桃谷好英さん(83歳)と、妻の澄子さん(80歳)を2月5日付の朝刊で紹介しました。
 実は、当初はこうした記事になる予定ではありませんでした。
 記者は最初、病気のことは知らず、長年、独自の折り紙を考案している好英さんを、「こんなすごい人がいる」と紹介しようと考えていたのです。取材の中で、好英さんが昨年3月に脳梗塞で入院し、目が悪くなったうえ、歩行も不自由になったと聞きました。
 しかし、澄子さんから「あまり人に言っていないから、病気のことは記事に書かないで」と頼まれました。私も、望まれないことをするつもりはなく、いったん了承して帰りました。
 ところが、原稿を書き始めても、どうも、うまくまとまりません。
 好英さんが、2万種以上の折り方を考え、海外からも高い評価を受けているなど、「すごい」要素はたくさんありました。
 しかし、ただ「すごい」と書くだけでいいのか、という疑問が湧いて来たのです。夫の折り紙の素晴らしさを熱心に語り、夫を気遣って、取材に必要な資料を自分から取りに行ってくれた澄子さんの姿が浮かびました。「好英さんのことは、夫を支え続ける澄子さんの存在なしには語れない」と気付きました。
 病気を2人で乗り越えて今があることを、ありのままに書く方が、読む人の心に響く。そう考え直しました。2人に私の考えを説明し、改めて取材をして書いたのが今回の記事です。
 56年の結婚生活を振り返ってもらうと、澄子さんは「夫の独創的な折り紙が世界で一番。そして私自身、夫の世界一の理解者だとも思う」と照れ笑い。好英さんも「新しい折り方を思いついた喜びを分かち合える人がいるから、続けられた」と感慨深そうでした。
 仲むつまじい様子がほほ笑ましく、「うらやましいです」と伝えると、澄子さんは涙ぐんで、「ありがとう」と一言。きっと、いろいろなことがあった人生を思い返しての涙だったのでしょう。折り紙作品に囲まれながら、見つめ合う2人の姿に、心が温まりました


『世界一』の夫婦 〜ひとつの記事ができるまで〜   平成24年3月1日号

 病を患いながら、折り紙の創作や普及に努める枚方市の折り紙作家・桃谷好英さん(83歳)と、妻の澄子さん(80歳)を2月5日付の朝刊で紹介しました。
 実は、当初はこうした記事になる予定ではありませんでした。
 記者は最初、病気のことは知らず、長年、独自の折り紙を考案している好英さんを、「こんなすごい人がいる」と紹介しようと考えていたのです。取材の中で、好英さんが昨年3月に脳梗塞で入院し、目が悪くなったうえ、歩行も不自由になったと聞きました。
 しかし、澄子さんから「あまり人に言っていないから、病気のことは記事に書かないで」と頼まれました。私も、望まれないことをするつもりはなく、いったん了承して帰りました。
 ところが、原稿を書き始めても、どうも、うまくまとまりません。
 好英さんが、2万種以上の折り方を考え、海外からも高い評価を受けているなど、「すごい」要素はたくさんありました。
 しかし、ただ「すごい」と書くだけでいいのか、という疑問が湧いて来たのです。夫の折り紙の素晴らしさを熱心に語り、夫を気遣って、取材に必要な資料を自分から取りに行ってくれた澄子さんの姿が浮かびました。「好英さんのことは、夫を支え続ける澄子さんの存在なしには語れない」と気付きました。
 病気を2人で乗り越えて今があることを、ありのままに書く方が、読む人の心に響く。そう考え直しました。2人に私の考えを説明し、改めて取材をして書いたのが今回の記事です。
 56年の結婚生活を振り返ってもらうと、澄子さんは「夫の独創的な折り紙が世界で一番。そして私自身、夫の世界一の理解者だとも思う」と照れ笑い。好英さんも「新しい折り方を思いついた喜びを分かち合える人がいるから、続けられた」と感慨深そうでした。
 仲むつまじい様子がほほ笑ましく、「うらやましいです」と伝えると、澄子さんは涙ぐんで、「ありがとう」と一言。きっと、いろいろなことがあった人生を思い返しての涙だったのでしょう。折り紙作品に囲まれながら、見つめ合う2人の姿に、心が温まりました


「被災地取材を通じて」 〜阪神大震災の日に〜   平成24年2月1日号

 明けましておめでとうございます。今年も引き続き、このコラムを担当します。どうぞ、よろしくお願いします。
 昨年の最も大きな出来事は、3月に起きた東日本大震災だと思います。私は、11月半ばから2週間、取材で宮城県に滞在し、地震と津波で大きな被害を受けた地域を回りました。
 建物が流され、むき出しの地面が広がる名取市閖上や南三陸町志津川。地盤沈下で漁港周辺が海水につかる気仙沼市。墓地に倒れたままの墓石が散乱する石巻市。
 8か月たっても、復旧や復興には程遠く、話を聞いた被災者はみな、「いつ、元の暮らしに戻れるのか」と心配そうでした。
 そんな中、少しでも被災者を励まそうと、枚方市や寝屋川市の不登校児やその友人らのフリースクール「みんなでつくる学校 とれぶりんか」の子供たちが、気仙沼市の小学校で自作の劇「白鳥のうた」を上演しました。
 難病の少女が、祖母の幽霊や動物たちとの交流を通じ、命の大切さを学ぶ物語。10〜18歳の9人が、関西弁で軽妙なやりとりを繰り広げ、来場者から笑い声があがっていました。
 中1の時に病気で通学できなかったという大出彩咲花(おおいであさか)さん(14歳・枚方市)は「家族を亡くし、孤独感を抱えている人たちに、仲間がいるよ、と伝えたかった。少しでも元気になってもらえてよかった」と話し、仮設住宅で暮らす気仙沼市の主婦斎藤勝子さん
(62歳)は「子供たちの思いやりが伝わり、うれしかった」と喜んでいました。
 劇中、「今の世の人は、物に囲まれ、自分を見失っている」というセリフが出てきます。斎藤さんがこの部分について述べた感想が、印象に残っています。「私たちの暮らしも、物があふれていた。でも、津波で全て流され、かえって命の大切さや健康のありがたさを感じてね。何もかもなくなったけれど、いろんな人に助けられて、今の方が幸せなのかも、と思うこともあるんですよ」。
 取材後、枚方に戻った私は、幸せとは何だろう、と考え続けています。被災された人たちが、一日も早く、落ち着いた暮らしに戻れることを願いながら。


「被災地取材を通じて」〜新年のごあいさつにかえて〜   平成24年1月1日15日合併号

 明けましておめでとうございます。今年も引き続き、このコラムを担当します。どうぞ、よろしくお願いします。
 昨年の最も大きな出来事は、3月に起きた東日本大震災だと思います。私は、11月半ばから2週間、取材で宮城県に滞在し、地震と津波で大きな被害を受けた地域を回りました。
 建物が流され、むき出しの地面が広がる名取市閖上や南三陸町志津川。地盤沈下で漁港周辺が海水につかる気仙沼市。墓地に倒れたままの墓石が散乱する石巻市。
 8か月たっても、復旧や復興には程遠く、話を聞いた被災者はみな、「いつ、元の暮らしに戻れるのか」と心配そうでした。
 そんな中、少しでも被災者を励まそうと、枚方市や寝屋川市の不登校児やその友人らのフリースクール「みんなでつくる学校 とれぶりんか」の子供たちが、気仙沼市の小学校で自作の劇「白鳥のうた」を上演しました。
 難病の少女が、祖母の幽霊や動物たちとの交流を通じ、命の大切さを学ぶ物語。10〜18歳の9人が、関西弁で軽妙なやりとりを繰り広げ、来場者から笑い声があがっていました。
 中1の時に病気で通学できなかったという大出彩咲花(おおいであさか)さん(14歳・枚方市)は「家族を亡くし、孤独感を抱えている人たちに、仲間がいるよ、と伝えたかった。少しでも元気になってもらえてよかった」と話し、仮設住宅で暮らす気仙沼市の主婦斎藤勝子さん
(62歳)は「子供たちの思いやりが伝わり、うれしかった」と喜んでいました。
 劇中、「今の世の人は、物に囲まれ、自分を見失っている」というセリフが出てきます。斎藤さんがこの部分について述べた感想が、印象に残っています。「私たちの暮らしも、物があふれていた。でも、津波で全て流され、かえって命の大切さや健康のありがたさを感じてね。何もかもなくなったけれど、いろんな人に助けられて、今の方が幸せなのかも、と思うこともあるんですよ」。
 取材後、枚方に戻った私は、幸せとは何だろう、と考え続けています。被災された人たちが、一日も早く、落ち着いた暮らしに戻れることを願いながら。


「ワクワクする仕事」〜作文の題材は記者〜   平成23年12月1日号

 新聞記者をしていると、取材相手の話を記事に書くことはあっても、自分が文章に書かれることは、ほとんどありません。ところが先日、記者のことを作文に書いてもらうという経験をしました。書いたのは、寝屋川市に住む小学3年の浅野麻優子さん(9歳)です。
 浅野さんは、「第61回全国小・中学校作文コンクール」の大阪府審査で、小学校低学年の部の最優秀賞に選ばれました。私は、受賞の感想を取材しました。
 受賞作文は、8月に生まれた弟の出産に立ち会った時の気持ちをつづった「生まれてきてくれてありがとう」。
 浅野さんは、痛がるお母さんを見て泣いてしまいましたが、おばあちゃんから、「みんな、この痛みを我慢して母親になる」と教わり、お母さんはすごいと思ったそうです。
 取材では、「この経験を通じて、将来は産婦人科医になりたいと思うようになった」と話してくれました。
 浅野さんは作文が好きで、「どんな風に読んでもらえるか、ワクワクしながら書く」そうです。毎日、その日の出来事を書く宿題も、ノートを何ページも使っています。取材のことも、その宿題で作文にしてくれました。
 後日、お母さんからコピーをもらいました。書き出しは、「金曜日に初めての体験をしました。それは取材です」。私の印象では、落ち着いた聡明な女の子でしたが、実は、緊張していたようです。「心臓が飛び出して来るんじゃないかと心配になるぐらい、ドキドキが抑えられませんでした」とありました。
 でも、「私が答えやすいように話を聞いてくださって、とっても楽しく話せました」、「ドキドキした気持ちを忘れるぐらい楽しい時間でした」とも書いてくれました。
 作文は、「記者の仕事は、質問ひとつでいい記事が書けるし、もしかしたら犯人を見つけてしまうかもしれないし、ワクワクする、ステキな仕事だな、と思いました」と締めくくられていました。
 ステキな仕事だと思ってもらえて光栄です。でも、記者が犯人を見つけて事件を解決してしまうのは、たぶんテレビドラマの中だけですよ。


「目の前が真っ黒!?」〜世界に挑む強さ〜    平成23年11月1日号

 オセロ」というゲームで遊んだことがある人は多いと思います。しかし、将棋や囲碁のように、勝敗と段位を競う分野があるのはご存じでしょうか。
 このオセロ競技で、枚方市長尾台の高校2年、岡本一樹君(17歳)が、11月3日からアメリカで開かれる世界選手権大会に出場します。
 岡本君が世界に挑むのは中3の時以来、2度目。前回は8位でした。岡本君は、「今度こそ、世界一に」と決意を新たにしています。
 岡本君は、小3からオセロ教室に通い、インターネットで世界のプレーヤーとも対戦して腕を磨きました。小6で、全国大会小学生の部で優勝するほど上達。段位は、5級〜9段の14段階のうち、上から3つ目の7段です。
 世界大会に向けた意気込みを取材した後、試しに対局してもらうことにしました。
 記者は、子供の頃に家族と遊んだことがある程度。勝てる気はしませんでしたが、「善戦はできる」と考えていました。
 私は白、岡本君は黒。私は、多くの石を裏返せる所を狙い、攻めました。でも、岡本君は、1、2個しか返せない所に打ちます。「妙だな」と思った時には遅かった。白の比率が増えすぎ、「ここに置けば黒を裏返せる」という場所が、なくなってしまったのです。
 「序盤で欲張るのは、実はよくないんですよ」。岡本君がニコリ。打つ場所がなく、順番をパスする私を尻目に、パタ、パタと白を黒に塗り替えていきます。応戦しようとしても、今度は白を打っても1、2個の黒しか裏返せません。最後の1マスに黒が置かれると、わずかに残った白はすべてひっくり返され、盤は一面、真っ黒になってしまいました。
 「途中から、勝てると分かってました」と岡本君。善戦するつもりが、完敗でした。オセロは、何手も先を読む洞察力と、戦況を見極める判断力が必要な、奥の深いゲームだと気づかされました。
 でも、いくら相手が世界レベルと分かっていても、やっぱり、負けは悔しいものです。岡本君の世界大会での健闘を祈りながら、「次は勝つぞ」と、私は根拠のないリベンジを誓ったのでした。


人の優しさに触れながら〜枚方支局に赴任して〜    平成23年10月1日号

 9月1日付で、枚方支局に異動してきました。前任の岡田健彦記者に代わり、今回からこのコラムを担当します。よろしくお願い致します。
 着任から間もないですが、枚方に来てまず感じているのは、「人の温かさ」です。
 8月末、転居後の生活のため、車の駐車場を借りようと枚方を訪れた時のこと。運営会社が見つからず、右往左往していると、道路工事の作業員の男性が心配して、「どこ探してるん。大丈夫か」と声をかけてくれました。
 枚方は、古くから宿場町として発展してきたと聞きます。そうした歴史から、もてなしや思いやりの心が自然と培われているのでしょうか。
 取材でも、人の優しさを感じる出来事がありました。
 東日本大震災で被災した福島市の主婦・齋藤タケエさん(63歳)が、枚方市で開いた人形展の取材。齋藤さんの人形を持っていた福島県相馬市の夫婦が津波で亡くなり、娘さんが「両親も人形も流された。両親と思って大事にしたいので、作り直して」と齋藤さんに依頼したエピソードを記事の中で紹介しました。
 展覧会には、この人形と同様のものが展示されました。本来なら、記事に添える人形の写真が必要なのですが、失念。気が付いて会場に戻った時には、人形は売れた後でした。被災地に義援金を送るため、希望者には人形を販売していたためです。
 困惑する記者を気遣って、展覧会を主催した枚方市のグループホーム経営・河合美惠子さん(62歳)が、購入者の男性に連絡を取ってくれました。男性の自宅で写真を撮り、無事、掲載。周囲の人たちに
助けられ、出来上がった記事でした。
 会場に来ていた際に取材を受けてくれた齋藤さんは、福島に帰った後、私にメールをくれました。「大阪の一番のお土産に新聞を買って帰りました。うれしい思い出を創っていただき、感謝しています」と。
 新聞記事は、巡り合いの中から生まれるものだと思っています。これからも、いろいろな人との出会いを大切に、枚方で人の心に届く記事を書いていきたいと思っています。


北河内での忘れがたい思い出〜枚方支局を離れるにあたって〜    平成23年9月1日号

 早いもので、枚方に赴任して1年がたちました。引っ越し中に呼び出されての事件取材で幕を開け、虐待や殺人など事件に追われ続けた秋と冬。統一地方選の準備や東日本大震災で慌ただしかった春。守口、枚方両市長選の戦いを酷暑の中、休み返上で何日も取材し続けた夏…。本当に様々なことがありました。
 9月1日付で鳥取支局に異動することになりました。枚方支局の管内は、子どもの頃から何度も通った親しみ深い場所だけに「もう少しいたかった」というのが率直な思いです。
 今回、最も印象に残った取材は何か、と考えてみました。色々ありますが、「冬花火の記事のその後」も決して忘れることができません。
 「冬花火」は市内の「おっちゃん」2人が、枚方の活性化にと、真冬の夜空に5分間だけ花火を打ち上げた企画。彼ら二人の古里・枚方への純粋な思いに心を打たれ、読売新聞だけが記事にさせていただきました。
 すると、後日、読者から本社に手紙が届きました。記事を6歳の娘に読んで聞かせたところ、その日を心待ちにするようになり、当日も親子で楽しい一時をすごせたそうで、「花火を打ち上げた方や読売新聞の記者さんらに感謝です」の一言がありました。娘さんが描いた花火のイラストからは、うれしさが伝わり、私も涙が出るほど感激しました。
 何か頑張っている人を取り上げたい。他社より先に。そう思いながら日々、必死にネタを探してきました。それゆえ、記事で何かを感じてもらえる人がいるなら、これほどうれしいことはありません。鳥取では若い記者を指導する立場になりますが、枚方で学んだことを伝えられたらと思っています。
 この1年、取材では、多くの人から温かみや優しさを感じさせていただきました。「十分に生かし切れただろうか」という思いはありますが、近い将来、成長して大阪に戻り、再び北河内に関する記事を届けられる日がくることを願っています。本当にありがとうございました。
 次回からこの欄は中田敦之記者が担当します。引き続き、よろしくお願い致します。


乗り切りたい猛暑の夏〜「暑い街・枚方」で暮らして〜    平成23年8月1日15日合併号

 蒸し暑い日が続きます。先日、街を巡ろうと、枚方から門真まで歩いたところ、数時間で汗びっしょりとなり、翌日、体調を崩してしまいました。普段の取材では車での移動がほとんどで、体力が衰えていたのかも知れませんが、夏の日差しを甘く見てはいけないということでしょう。熱中症で運ばれる人も多いようですし、皆さんもご注意ください。
 ところで、暑さと言えば、枚方に来てから夏の気象情報を見る目が変わりました。暑さにまつわるニュースが流れるたびに、気温の高い代表的な地点として枚方がよく登場するからです。過去の記事を見ると、全国の最高気温を記録したこともあるとか。確かに街を歩くと、熱を持った大気の壁が目の前に立ちはだかっているのでは、という錯覚を覚えたことがありますが、こんな「暑い街」として有名だとは知りませんでした。
 もし、枚方が歴代最高記録を出したらどこで取材しようかと思案しており、今年の夏はそんな日が本当にやって来るのかと、少しドキドキしています。
 実は、既に6月末に枚方で40度以上を記録したと聞きましたが、ご存じでしょうか。これこそ、記録的数字ですが、京阪枚方市駅前ロータリーにある温度計での話です。気象台の観測ではその日、枚方の最高気温は32度程度でした。実は、昨年もこの温度計では40度以上の数字をしばしば刻んでいたそうで、ご覧になられて、うんざりした方もいるのではないでしょうか。
 「あまりにも気象台と差がありすぎる。おかしいのでは」と市に尋ねると、どうやら機械が狂っていたようで、早速、その日から通常の数字に戻りました。何とも人騒がせな話ですね。
 とは言え、暑いのは事実。なおかつ、今年は節電が叫ばれており、皆さんも例年以上に対策に苦労されていることでしょう。私もなるべく、枚方支局で仕事をする際は、冷房の使用を控えるように心掛けています。
 こんな時こそ、涼しげな写真で、紙面を通して癒やしを感じてもらえればと、アイデアを練りながら、とっておきの場所を探しています。


悩ましい雨の取材〜今年も室内開催となった「ひら婚」などから〜    平成23年7月1日号

 梅雨を迎え、ぐずついた空模様の日が続きます。枚方で単身赴任中の私は、多くの衣類を持って来ておらず、洗濯後、部屋に干していた下着やワイシャツがしばしば生乾き状態ということに、頭を悩ませています。
 取材でも、雨は非常に厄介な存在です。催しが中止となり、記事が書けなくなることもありますし、雨天決行の時も晴天時とでは写真の印象が変わります。当然、屋外で相手に話を聞こうにも、長時間は立ち止まってくれません。
 かつて、選挙の告示の取材が大雨に見舞われた時は苦労しました。傘でカメラを守りつつ、候補者と聴衆を撮影。同時にメモを取らなければなりません。取材後、ノートは雨でよれよれに、ペンの文字はにじんで読めなくなっていました。
 和歌山の新宮に赴任した時は、雨で世界遺産の熊野の山々にもやがかかり、神秘的な雰囲気になる効果も目の当たりにしましたが、やはり、多くの取材で雨はあまり歓迎されない存在だと思います。
 その思いを改めて感じたのが6月11日にひらかたパークで行われた結婚式「ひら婚」でした。ひら婚は昨年から「花と音楽の街の魅力を伝えよう」と実施されていますが、悪天候のため、昨年に続き、今年も室内で行うことになってしまいました。
 ウエディングドレス姿の女性が、園内の庭園でバラに囲まれて入場する構図の写真が撮れればと期待していたのですが、残念ながら室内ではそこまでの雰囲気にはなりません。
 当初は私も晴れを期待していましたが、実はこの日に限っては複雑な思いがありました。数日前からの天気予報の降水確率は90%。大雨とされ、室内での取材準備しかしていませんでした。朝、目を覚まして小雨だった時は「今さら、そんな」と焦り、悩ましい天気を恨みたくなりました。
 もっとも、式自体はロールケーキを2人で作るなど、温かみを感じさせる内容で、企画した学生らの思いが伝わってきました。最後は屋外で記念撮影だけはできましたが、来年こそはすっきりと晴れ、バラに囲まれた式が取材できればと願っています。


心躍る高校野球取材〜春季府大会などを通して〜    平成23年6月1日号

 すっかり新緑がまぶしい季節となりました。つい先日まで寒さに震えていたのがウソのようですね。夏の足音を感じ、取材をしていてもどこか心が弾みます。
 さて、先日、まさに、夏の気配を感じさせる取材が回ってきました。高校野球です。甲子園をかけた夏の大会ではなく、その前哨戦となる春季大会の事です。
 私は高校野球が好きで、前任地の阪神支局にいた頃は8月に休日出勤で仕事が一段落つくと、よく甲子園に出掛けていました。初任地の鳥取では、入社直後に春季大会の取材を命ぜられ、自然に囲まれた球場で、白球を追い続けられることに「こんな幸せな仕事があるのだろうか」とかみしめたのを記憶しています。もっとも、1年生で何のプレッシャーもなかったがゆえの感想だったのですが。
 ただ、府大会決勝のこの日の取材は少し緊張を伴うものでした。高校野球の世界ではさほど有名とは言えない公立の汎愛が決勝に進出していたためです。大阪で公立校が優勝すれば1995年春の市岡以来、実に16年ぶり。私には汎愛の優勝に備えるという役割が課せられていたのです。
 記者は私のみ。スタンドではスコアをつけながら得点圏に走者が進むたびに、1球ずつシャッターを押し続けなければなりません。試合後は選手や監督の談話を取り、高野連にも様々な事を確認して記事を書く必要があります。なかなかの重労働です。
 相手の大阪桐蔭が有利と想像はついたものの、現場で混乱しなくてもいいように資料を準備して臨みましたが、結果はご存じの通り同校の圧勝。取材で大慌てという状況にはなりませんでしたが、汎愛の快進撃をたたえる意味で、例年よりも分量を多めに送稿する事にしました。
 球場では厳しい日差しの下、最後までスタンドから大声援が送られていたのが印象的でした。夏の大会では地元・大東市の大阪桐蔭の活躍はもちろん、今度は北河内地域の学校の躍進で、たとえ、資料と格闘することになっても、球場が揺 れる様子を見ながら記事が書ければと、期待が膨らんでいます。


記憶にとどめなければならない言葉と光景〜震災取材を通して〜    平成23年5月1・15日合併号

 東日本大震災の発生から1か月半。新聞では、今も被災地の報道に相当な分量が割かれ、被害の甚大さを物語っています。私も発生翌日の3月12日に東北に出張し、20日に枚方に戻りましたが、「自分にできることはないだろうか」と考え、「可能な限り、震災関連の取材をしよう」と心掛けている日々です。
 帰阪後、いろいろな方に話を聞く中で、印象的だったのは、やはり現地を訪れた人の言葉です。  宮城県を視察したアスベストの患者支援団体のスタッフは、被災範囲の広さに改めて驚き、住民やボランティアにアスベスト被害を防ぐマスクが行き渡らないのではないかと心配していました。
 また、岩手県に派遣された消防職員は、あまりの惨状に最初、そこが町だと思えなかったと言います。車が木や電線に引っ掛かっていたり、船が交差点の真ん中に止まっていたり。職員は阪神大震災での活動経験もあったそうですが、「今回は津波が押し寄せたため、通常では考えられない所にがれきがあり、戸惑った。阪神の時とは状況が違った」と振り返りました。流された人も多く、遺体を発見しても、すぐに誰かは判明できないという状況だったようです。
 確かに、今思い返しても忘れられない光景の連続でした。仙台空港は壊滅的な被害を受け、駐車場などに車が積み重なり、がれきのたまり場のようでした。
 また、海岸沿いの集落では、民家の土台らしきものが残るのみで、そこに家があったことも判別できない状態でした。荒れた家が立ち並ぶ道を豚数匹が悠然と歩く様子は、遠い国に来てしまったのではないかと錯覚したほどです。かなり離れた場所に養豚場があり、おそらく豚はそこから流されたのでしょう。
 現在、被災地では復旧が進みつつあると聞きますが、人々が生活するには厳しい状況となっているはずです。枚方にいると忘れそうになりますが、現地を訪れた人に聞いた話や自ら目にした光景を胸に刻み、被災者の支援につながるような記事が書けないかと、考え続けたいと思います。


記事で力になりたい〜東日本巨大地震を取材して〜    平成23年4月1日号

 東北地方に甚大な被害をもたらした巨大地震の取材で、発生翌日から20日まで現地に入りました。私が足を踏み入れたのは福島県。海沿いを中心に多くの死者、行方不明者を出すとともに、東京電力福島第一原子力発電所の事故で、住民らが大きな影響を受けた県です。
 初日に訪れたある市では、津波に飲み込まれ、おびただしい数の木々がなぎ倒されるなど、普段はのどかであろう田園風景が一変。本来の景色が分からないほど壊滅的な打撃を受けていました。「何から手を付けていいのか分からない」。そんな様子でぼう然と立ち尽くしていた住民の姿に胸が痛みました。
 ただ、現場での取材はこの後、思うようにできなくなりました。原発の事故が繰り返されたからです。原発の半径20kmに住む住民には、避難指示が出され、30km圏にいる人たちには屋内退避が求められました。取材拠点となっていた福島支局では、連日、爆発などのニュースが繰り返されるたびに緊張が走りました。
 そんな中、支局総出で試み続けたのが、避難所にいる人たちへの取材です。地震だけではなく、放射能汚染への恐怖という理由で古里を離れなければならなかった市民らの思いに耳を傾けました。
 ほとんどの人は、2度、3度と避難場所を移転せざるを得ず、疲れ果てていました。「風呂に入れず、疲れが取れない」「子どもに熱が出たのに、ガソリンがないため、病院に連れて行くことができない」…。嘆きと不安の声が続きました。また、原発のおひざ元にある町から避難してきた人は「もう、あそこには戻れないだろう」と悔しさをにじませながら語ってくれました。
 20日現在、福島県では、県外に避難する県民が増え、避難指示が出されていない地域でも、住民がほとんどいなくなった所もあります。一部の県産農産物への被害も指摘され、県全体の活力が落ちるのが心配です。
 そんな中でも、県民は懸命に暮らしていこうとしています。個人的には、全く縁のなかった県ですが、今後は枚方から、記事などで何とか力になりたいと考えています。


パワーを感じるアイデア企画〜冬花火の取り組みを取材して〜    平成23年3月1日号

 普段、行政や街の話題などを取材していると、「これは目の付け所が面白いな〜」と思わず、うなりたくなるネタに遭遇することがあります。お金をかけずにアイデアで勝負したり、誰も手を出さなかったことに大まじめに取り組んだりする企画などで、いわゆる「いちびり精神」が感じられるネタが、私は結構好きなんです。
 2月5日に記事にした、枚方市の中作平さんらの企画にも楽しませてもらいました。仲間とカンパを集め、5分間だけ枚方の夜空に花火を打ち上げた「冬花火〜おっちゃん2人だけのまちおこし」です。
 「淀川の花火大会が休止となって久しい枚方を活性化させるにはどうすればいいか」。その答えとして、真冬に5分だけの花火を打ち上げ、多くの市民に少しでも楽しんでもらいつつ、その心意気を若手に伝えたいー。その発想には驚かされました。
 当初は「なぜ、冬に花火なのか。目立ちたいだけだろうか?」と意図がいまいち分からず、記事化を見合わせようかと迷っていたのですが。
 それでも、6日の本番には、打ち上げ場所を公表していなかったにもかかわらず、多くの人が訪れ、65発の<サプライズショー>を堪能したそうで、中さんのもとには、知人らから「ええもん見せてもらった。ありがとう」という感謝の声が相次いだとか。また、記事を見た人が「何で声かけてくれへんかってん。今度は協力するで」と言ってきたり、「足しにしてくれ」とお金を持って来てくれたりもしたそうで、一定の反響があったようです。
 今後、市内の別の場所で花火を打ち上げる案もあるそうです。また、市民で「お金をかけずにギネスブックに載る」という構想も思案中だと言います。
 「お前らみたいなアホがおらんかったらあかん」。中さんは今回、こうも言葉をかけられたそうですが、まさに褒め言葉としての"アホな企画"ならではのパワーを感じました。
 これからも、いろんな人と知り合い、「こんなこと、よう思いつきましたね」と感心させられるような取り組みに出会えればと、期待しています。


寒さの中にも印象深い取材の数々〜ひらかたハーフマラソンなどから〜    平成23年2月1日号

 新年を迎えて、1か月。最近、冷え込みが厳しいですね。暖房が恋しい季節ですが、大阪府内では今年に入って、民家火災が相次いでいます。私も「住民が死亡」という悲しい取材を何度も繰り返すことになってしまいました。皆さんも火の元にはお気を付けください。
 さて、寒さと言えば、私も印象的な取材の思い出が幾つかあります。初任地の鳥取では、道路が凍結。交差点の中央まで車が止まらず、肝を冷やしたことがありました。
 「除雪機関車が初運行」という取材では、線路脇で未明にカメラを構えましたが、猛吹雪で車体が見えません。「これはまずい」と震えながら何時間も折り返し便を待って撮影し、祈るような気持ちで現像しましたが、雪以外、ほとんど何も写っていませんでした。
 和歌山の新宮に転勤してからはこの時期、「那智の滝が凍る日」を取材しようと、毎晩、落ち着いて眠れませんでした。神社に早朝、連絡してもらうのですが、早く現場に行かないと解けてしまうためです。滝の冷え込みは厳しいものの、太
陽に照らされて氷が輝く様子は忘れられません。
 枚方ではそういう経験とは無縁かと思っていましたが、1月10日に淀川河川公園で行われた「ひらかたハーフマラソン」は、こちらに来て初めてと言っていいほど寒さがこたえる取材となりました。
 身を切るほどの寒風が吹き続けるコンディション。目当ての選手がなかなかゴールせず、気が付けば数時間、風よけのないところで立ち続けていました。この日は同時刻に、各地の成人式の様子を確認する必要があったのですが、携帯電話の操作も寒さで震えてうまくいかないほどでした。
 そんな私とは対照的に、振り袖姿の新成人を含む参加者は元気いっぱい。ある女性選手は「今日は寒いうちには入りませんよ。おかげで成績も残せて、今年もいい年になりそう。あなたも走ってみれば」とさらり。よく見れば、ゴールしたほとんどの選手が笑顔でした。
 参加者から力をいただき、また一つ、「寒さにまつわる、忘れられない取材」が増えた気がしました。


新しい年を迎えて〜今年も新たな出会いに期待〜    平成23年1月1・15日合併号

 このコラムも私が担当となって3回目。9月の着任後、記録的な猛暑の取材をしていたのがうそのように、取材中も肌を突き刺す寒さが身にしみるようになり、季節の移ろいの早さを感じています。
 さて、相変わらず事件事故の取材が多い毎日ですが、車に乗っていて、少しうれしくなるひとときがあります。車窓から「ひらかたパーク」の観覧車が見えた時です。特に取材後、美しくイルミネーションが夜空に輝く姿が目に入ると、全身の力を抜いて見とれてしまうことも。管内に大きな遊園地があることの幸せをかみしめてしまいます。
 大阪市城東区の京阪沿線に住んでいた私にとっては、子どもの頃、何度も連れて来てもらった場所。記憶は薄れていますが、プールや乗り物、ステージショーと、胸が騒ぐ場所であったことは間違いなく、それが今も心の片隅に残っていると思います。
 その「ひらパー」が今年、寝屋川市に前身の施設ができて100年になると聞き、この秋、何度も足を運びました。確か、以前は今よりも牧歌的で、「ひらパー」という言葉も一般的ではなかったはず。1993年からの10年間、近畿地方を離れている間にどうやって、より若者の心をとらえる施設になったのかを知りたいと思っていました。
 広報担当者や来場者の話を集めて浮かび上がってきたのは「癒やし」と「笑い」というキーワード。そして、特に舌を巻いたのが広報戦略の巧みさです。
 ベタな笑いで人気のCMや企画も、広報担当者によると、話題性を持たせられるよう緻密に計算されているそうです。園内には100年を祝う看板などはありません。今年の「京阪電車開業100年」と重ならないよう、園が枚方に移って100年となる2年後に再び盛り上げる考えがあるためといい、考え抜かれた計画に驚かされました。
 近年は入場者数の減少傾向が続いていますが、多くの全国の読者に知ってほしい場所だと思っています。今後もユニークな仕掛けを見せてもらい、その魅力を伝えられればと思っています。


「ひらパー」、魅力の裏に戦略の巧みさ〜老舗遊園地の今を取材して〜    平成22年12月1日号

 このコラムも私が担当となって3回目。9月の着任後、記録的な猛暑の取材をしていたのがうそのように、取材中も肌を突き刺す寒さが身にしみるようになり、季節の移ろいの早さを感じています。
 さて、相変わらず事件事故の取材が多い毎日ですが、車に乗っていて、少しうれしくなるひとときがあります。車窓から「ひらかたパーク」の観覧車が見えた時です。特に取材後、美しくイルミネーションが夜空に輝く姿が目に入ると、全身の力を抜いて見とれてしまうことも。管内に大きな遊園地があることの幸せをかみしめてしまいます。
 大阪市城東区の京阪沿線に住んでいた私にとっては、子どもの頃、何度も連れて来てもらった場所。記憶は薄れていますが、プールや乗り物、ステージショーと、胸が騒ぐ場所であったことは間違いなく、それが今も心の片隅に残っていると思います。
 その「ひらパー」が今年、寝屋川市に前身の施設ができて100年になると聞き、この秋、何度も足を運びました。確か、以前は今よりも牧歌的で、「ひらパー」という言葉も一般的ではなかったはず。1993年からの10年間、近畿地方を離れている間にどうやって、より若者の心をとらえる施設になったのかを知りたいと思っていました。
 広報担当者や来場者の話を集めて浮かび上がってきたのは「癒やし」と「笑い」というキーワード。そして、特に舌を巻いたのが広報戦略の巧みさです。
 ベタな笑いで人気のCMや企画も、広報担当者によると、話題性を持たせられるよう緻密に計算されているそうです。園内には100年を祝う看板などはありません。今年の「京阪電車開業100年」と重ならないよう、園が枚方に移って100年となる2年後に再び盛り上げる考えがあるためといい、考え抜かれた計画に驚かされました。
 近年は入場者数の減少傾向が続いていますが、多くの全国の読者に知ってほしい場所だと思っています。今後もユニークな仕掛けを見せてもらい、その魅力を伝えられればと思っています。


ブランド力強化に知恵絞る自治体〜寝屋川市の計画を取材して〜    平成22年11月1日号

 枚方支局に着任して約2か月がたちました。まだ仕事に慣れたとは言い難いのですが、最初のコラムで書いたように、交通事情の改善を生かして、車で管内を駆け巡る日々で、幹線道路から路地に入り、全く知らない場所を通るのが今の楽しみです。
 さて、その最初のコラムで「個性豊かな7市が担当」と書きましたが、市の個性について考える機会が、意外にもすぐにやってきました。寝屋川市がブランド力を高めようと、取り組みを始めた「ワガヤネヤガワ・プロジェクト」の取材で
す。
 実はこの計画、着任初日に「まずこれを取材しよう」と決めたものでした。ドーナツ型のマークが付いた記者用資料が、前任者が残した書類の山から次々と出てくるのですから。輪の部分には「ワガヤネヤガワ」の文字。「何これ」と思わずにはいられませんでした。
 取材してすぐに分かりましたが、これこそがプロジェクトのシンボルマークでした。そして「なんやこれは」と思わせ、寝屋川に目を向けてもらうことこそが市の狙いだったのです。
 私にとって驚きだったのは、「なぜ、寝屋川市がそんな計画を必要とするのか」ということです。和歌山や兵庫で仕事をしていた経験から「近畿の人なら、その名を誰でも知っているだろう」と市の知名度の高さを感じていたからです。
 ただ、市職員の説明は明快でした。「これといったものがないんです。最近は事件の印象で語られることも多くて」。成田山不動尊など有名な場所もあるのですが、ベッドタウンとしての画一的なイメージが強いということなのかもしれません。
 市ではまず、香里園などのマップ作りや市について知ってもらうための講座などに取り組むそうです。ブランド力を高めるというのは一朝一夕にできるものではないと思いますが、謙虚とも言える姿勢には好感が持てました。
 今後、市のプロジェクトを追いつつ、取材を通して、これまであまり知られていない魅力的な人や場所を取り上げ、ブランド力向上に微力ながら貢献できればと考えています。


縁ある新天地に期待〜枚方支局に赴任して〜    平成22年10月1日号

 9月1日付で、安恒記者に代わり、兵庫県尼崎市にある阪神支局から異動して来ました。今回からこのコラムを担当することになります。よろしくお願い致します。
 着任後、早速、管内を駆け回っていますが、取材先の多さに、四苦八苦する日々です。尼崎市のみが担当だった前任地と異なり、枚方市を始め、個性豊かな7市を持つことになりましたから。町名や地図も頭の中に正しくインプットされておらず、戸惑うことばかりです。
 とは言え、支局の管内は、全く無縁の地ではありません。実は出身が大阪市城東区。幼い頃から、京都の親戚宅に行く際、マイカーなどで数え切れない程この地を通ってきました。30年たっても変わらない店、「ここに着くともうすぐ帰れる」とほっとした交差点…。幹線道路で目にする風景は見覚えのあるものばかり。この地で働けることに感慨を覚えています。
 そんな思いで赴任しましたが、取材を始めて、あることに気付きました。国道1号や周辺の道路では、予想したほど渋滞で悩まされることがないのです。
 かつて何度もイライラさせられた経験がありましたし、事件、事故に備え、歴代の支局員は 「交通事情は最悪。場所によっては車ではなく電車で向かうべし」 と後任に引き継いできました。
 ところが、着任してすぐ、枚方市中心部から寝屋川市の現場に急いで向かった際、こちらの予想を大きく下回る時間で到着し、拍子抜けしました。やはり、第2京阪道路の全線開通の影響なのでしょう。
 今も時間帯によっては渋滞が激しい時もありますが、阪神間と比較しても「最悪」という実感はありません。資料の数々を見ていると、「地域活性化のチャンス」との考えもあるようで、それが現実のものとなればと期待を込めて見守りたいと思います。
 私にとって、赴任前は、通過するだけのことが多かった枚方支局の管内ですが、交通事情の改善を生かし、フットワーク良くいろんな場所を訪れて、読者の皆さんに様々な記事を届けたいと思っています。


いじめをなくしたい〜寝屋川市の中学生たちが劇上演〜    平成22年9月1日号

 寝屋川市の中学生たちが社会問題化するいじめをテーマにした「いじめ撲滅劇」の上演を続けています。市内公立中学全12校から生徒らが集まる「寝屋川市中学生サミット」の部会や定期大会などで、「いじめ撲滅を広く訴えよう」と上演を決定。08年1月、09年8月に続き、今年は「ネットいじめ」を取り上げた劇「桜の樹のメッセージ」を8月25日に市総合センターで発表しました。
 劇は中学校のあるクラスが舞台。クラスのネット掲示板に、匿名で中傷の書き込みが続き、疑心暗鬼が広がる。ある日、カンニングの疑いをかけられた男子生徒が標的になり、「うざい」「地獄に落ちろ」などと書き込みがエスカレートしていく、というストーリー。
 脚本はサミットに参加する中学生らが市内全中学校約3000人を対象に実施したアンケートを基に作成。「ネットいじめ」については、「自分への中傷がなくなったと思ったら、また別の人が標的にされた」、「匿名だと調子に乗って変なことを書いてしまいそう」などの体験談や意見が寄せられ、セリフに反映されました。
 各校生徒会の委員からオーディションで選ばれた生徒22人の練習を何回か取材で訪れました。
 市立第四中3年の三井瑞穂さん(14歳)は、前回はいじめられ役、今回は中立の生徒役を演じ、「役に入り込むことで、それぞれの立場の気持ちがよく理解できる。いじめを無くしたいという気持ちが大きくなりました」と話してくれました。ほかの生徒たちも「1年生の時に見て、かっこいいと思った」、「劇に出たくて生徒会に入った」と演じる表情は真剣。寝屋川の中学生たちの間では、劇に出ることが一種の〈ステータス〉となっているようです。「いじめをなくそう」。市を挙げた取り組みは確実に根付いていると感じました。
 急な報告になりますが、9月1日付で阪神支局に異動することになりました。1年半の間、お付き合いいただき、読者や関係者の方々に心からお礼を申し上げます。後任は、阪神支局から来た岡田健彦記者です。


高校野球の夏到来〜大阪大会の取材から〜    平成22年8月1日号

 夏と言えば高校野球。全国の頂点を目指して球児たちの熱い夏が始まりました。この季節、母校の勝ち負けが気になる方も多いのではないでしょうか。ちなみに私は元高校球児で、大阪大会に出場した母校は2回戦をコールド勝ちで突破したのですが、3回戦ではコールド負け。初戦敗退だった私たちと比べたら大したもので「よく頑張った」と拍手を送りたいです。
 そんな大阪大会の取材も仕事の一つ。記者が毎日交代で球場に駆け付け、私も2日間、取材に携わりました。最も印象に残ったのは4回戦の履正社―PL学園戦。春の近畿大会準優勝校と昨夏の代表校の好カードは激しい競り合いに。同点で迎えた七回裏にPLが2点を奪い、突き放したかと思えば、八回表に履正社が3点を奪い逆転。その裏にPLが再逆転すると九回には履正社が追いつき、延長戦へ。最後は履正社が江原祥太主将(3年)の一打で試合を決めました。
 選手はもちろん、取材する側もこういう試合は息を抜けません。書く原稿を思い浮かべながら試合を見ているのですが、同点や逆転の場面を迎える度に、頭の中で原稿を書き直すことを繰り返します。
 「筋書きのないドラマ」に頭を悩まされながら、注目したのはPL学園の難波清秀、多司将仁両投手(共に3年)。2人は共に昨夏の甲子園に登板。寮では同室の良き親友、グラウンドでは良きライバルとして切磋琢磨し、〈大会屈指の両右腕〉として今大会に臨みました。
 この日の先発は難波投手。2点リードした九回から登板した多司投手が打ち込まれての敗戦。試合後、多司投手は「ほんますまん」と仲間たちの前で泣き崩れ、難波投手はその肩を抱き抱え
「よくやったやん」。取材に応じた難波投手は「ここまで成長できたのも多司がいたからこそ。アイツがいなかったら今の自分はないと思いま
す」ときっぱり言い切りました。
 その一言に原稿への迷いが吹っ切れた気がしました。取材した球児のその後の活躍もまた記者の楽しみ。2人のさらに成長した姿を早く見てみたいと思っています。


代表勝利に大阪も熱狂〜サッカーW杯の取材から〜    平成22年7月1日号

 サッカー・ワールドカップ(W杯)南アフリカ大会が開幕しました。日本代表も4大会連続で出場を果たしており、列島中の盛り上がりを感じています。私は専ら自宅観戦派なのですが、スポーツバーで飲食しながら熱狂したり、観戦や応援の仕方は様々。競技場や体育館などでのパブリックビューイングもすっかり定着した感があります。
 14日に行われた日本代表初戦の対カメルーン戦では、取材でパブリックビューイングが開かれる大阪市北区の映画館「梅田ブルク7」へ。会場への一番乗りは豊中市の会社員村松伸一さん(52歳)。W杯では日本代表の試合があるごとに試合会場やスポーツバー、パブリックビューイングでの応援を欠かさないそうです。続々と集まるサポーターの青色の代表ユニホームにはお気に入りの選手たちの背番号が。しかし、村松さんの着るユニホームには背番号はない。理由を聞くと「全員が好きで全員に頑張ってほしいから、あえて背番号はつけないんです」。応援を始めた時からのポリシーだそうです。
 約100人が集まった会場では、村松さんが音頭を取り、「日本」コールが響き渡る。本田圭佑選手の1点を守り切っての勝利の瞬間、村松さんは「この時を8年間待ってました」と周りのサポーターたちと抱き合って喜んでいました。
 一夜明けて本田選手の出身地・摂津市へ。母校の市立鳥飼北小学校では児童らが英雄の活躍を喜び合い、興奮冷めやらぬ様子での登校。4年の松本貫太君(10歳)は「ゴールは本当にうれしかった」と本田選手のユニホームを着て胸を張り、校門で児童らを迎え入れた大路守校長も「さすが『摂津の星』。こんな誇らしいことはない」と喜んでいました。
 4年前のドイツ大会当時は兵庫県淡路島の洲本支局員。南あわじ市出身の加地亮選手が代表に選ばれ、地元でのパブリックビューイングなどを取材しましたが、結局、同大会では未勝利。代表が勝利する盛り上がりは未経験でした。取材する側まで一体感や高揚感が味わえるW杯の勝利。やみつきになりそうです。


若手音楽家を見守りたい〜河島英五音楽賞を取材して〜    平成22年6月1日号

 2001年に亡くなった歌手・河島英五さんの遺志を継ぐアーティストを発掘しようと創設された「河島英五音楽賞」の発表がありました。賞は07年に始まり、河島さんの遺族の方々や親交のあった落語家・桂南光さん、河島さんが生前住んでいた四條畷市などが制定委員会を作り、毎年全国からの応募作を審査しています。
 私が河島さんの生の
「語り」を初めて聴いたのは大学時代。毎日放送ラジオの「すみから火曜・河島英五」という番組でした。『時代おくれ』、『酒と泪と男と女』――。河島さんの代表曲を耳にしたり、カラオケで歌ったりし、その歌声や歌詞から硬派なイメージがありました。ところが、番組を聴くとボケとツッコミを自在にこなす関西人ならではの絶妙なトーク。一気に河島さんのとりこになり、毎週火曜日は番組を聴くために、ラジオの前で放送時間を待つことが習慣になっていました。
 番組の中では、地元・四條畷や、長女・あみるさん、次女・亜奈睦さん、長男・翔馬さんら家族の話をよくされていたのが印象的で、特に自身が経営するライブレストランで演奏する若手アーティスト
らを励まし、気遣う河島さんの語りは温かく、自分自身も励まされてい
るように聴いていました。そんな河島さんの思いを受け継ぐ音楽賞の存在を枚方支局に赴任して初めて知り、感激もひとしおでした。
 音楽賞は今回で4回目。188曲の応募作品の中から、最優秀作品には関西を中心に活動をする
ポップスバンド「たなた
ご」が歌う『でかい感謝』が選ばれました。06年結成の男性3人組でドラムの小西政弘さん(23)は
四條畷市在住。同市民の受賞は初めてで、小西さんも「河島さんゆかりの地元のこの賞を絶対に取りたかった」と取材で喜びを爆発させていました。
 小西さんらは受賞曲発表のライブで、翔馬さんや亜奈睦さん、河島さんのライブレストランで演奏経験のある押尾コータローさんらと共演を果たします。天国の河島さんとともに受賞した若手アーティストたちの活躍を楽しみにしています。


交流都市に思いをはせる〜枚方市がガイドブック発行〜    平成22年5月1日号

 色んな所行ってみたい。そんな思いにさせる冊子が枚方記者クラブに届きました。枚方市が音楽や文化、産業など様々な分野で交流を続けている国内外10都市の見どころをまとめた「都市交流ガイドブック」です。
 国内外6つの友好都市(中国上海市長寧区、オーストラリア・ローガン市、韓国全羅南道霊岩郡、高知県四万十市、北海道別海町、沖縄県名護市)や農産物販売や七夕伝説の町などで交流している3都市(北海道伊達市、奈良県天川村、長崎県波佐見町)、合併で友好都市関係はなくなったが地域間交流を続ける香川県塩江町(現高松市)について掲載。各都市の概要や見どころ、特産品などを写真をふんだんに使って分かりやすく紹介。交流を始めたきっかけや年間のイベントカレンダー、観光する場合の問い合わせ先も載っています。
 ページをめくりながら思いをはせたのは、北海道の別海町です。道東部のオホーツク海に面し、人口は約1万6000人で面積は約1320平方キロメートルと香川県とほぼ同じ。約900戸が乳牛約11万頭を飼育し、牛乳やバター、チーズの生産も盛んな国内随一の酪農郷だそうです。
 1984年から枚方市の独身女性と別海町の酪農家男性との交流会が始まり、何組ものカップルが誕生。両市町の中学生も毎年訪問し合うなど交流は盛んです。市は「一般の方にも別海町をもっと知ってもらおう」と2月に同町を訪れる市民向けのツアーも初めて企画。最初は応募人数が集まらず担当者も「中止になるかも」と気をもんでいましたが、最終的には約20人が参加し、無事行われたそうです。流氷やハクチョウなど、冬の北海道ならではの自然を満喫してみたい。そんな気分が盛り上がるばかりです。
 ガイドブックはA4版14ページでオールカラー。5000部を作成し市役所本館・別館、文化観光課、ふれあいセンター、各生涯学習市民センターなど市内50か所で希望者に配布しています。問い合わせは文化観光課(050・7102・3202)へ。


地元の声援、球児に届く春〜選抜高校野球大会を取材して〜    平成22年4月1日号

 第82回選抜高校野球大会が3月21日から、兵庫県西宮市の甲子園球場で始まりました。読売新聞の取材陣に加わり、泊まり込んで球児たちを取材しています。
 やはり醍醐味はスタンド取材です。こちらが思わず加わりたくなるような盛り上がりは高校野球ならでは。印象的だったのは、沖縄県から初出場の嘉手納高校のスタンドです。
 同高がある嘉手納町は人口約1万4000人で、米軍基地が町域の80%以上を占めると言います。中学時代に全国優勝の経験があるバッテリーを擁し、昨秋の九州地区大会で初優勝。以来、普天間基地移設問題に揺れる基地の町は、野球一色になったそうです。
 今回の応援に備えて、旅行社3社の地元店舗が「嘉手納高校旅行社会」を結成し、ツアーを準備しましたが、組み合わせ抽選の結果は開幕日の日曜日。1200人を超える申し込みに対し、定期便とホテルのチケットが取れず、急きょ臨時便2機をチャーターし、大阪や兵庫のほか和歌山、徳島など計5県に分宿したそうです。試合開始前に
続々集まる地元応援団を見て、同会の我喜屋良徳さん(52歳)は「抽選以来、不眠不休の準備でした。豪雨の影響も何とか避
けられ良かった」と胸をなで下ろしていました。
 スタンドは地元の盛り上がりをそのまま持ち込んだ様相。好機や好守備の度に、指笛や伝統の手踊り「カチャーシー」を交えて懸命の声援。野球部のOBも数多く駆け付け、1993年に卒業した亀島竜さん(36歳)と多嘉良豊さん(36歳)は在学当時は主将とエース。基地内の飲食店で働く多嘉良さんは「移設問題が持ち上がる度にとても複雑な気持ちになる。それを忘れさせてくれるような後輩たちのプレーです」。亀島さんも「野球の町として全国に名をとどろかせてほしい」と当時のユニホーム姿で声を張り上げていました。
 結果は0―4の惨敗でしたが、エースの池原有投手は「試合中はずっと応援に後押しされました。また甲子園に帰ってきたい」。初出場の選手たちにしっかり届いていたようです。


走る楽しさを感じたい〜森繁久彌さんゆかりの人たちを取材して〜    平成22年3月1日号

 昨年11月、俳優・森繁久彌さんが96歳で亡くなりました。森繁さんは枚方市出身で1984年には名誉市民に。2月6日に行われた枚方市葬「名誉市民・森繁久彌さんを偲ぶ会」まで市内のゆかりの人などを取材し、森繁さんの素晴らしい足跡と人柄に触れることができました。
 枚方市三矢町の高校教諭・真先友宏さん(49歳)は曽祖父が森繁さんの生家で執事を務めていました。以来、家族ぐるみの親交があり、森繁さんがブリキ屋の親方として出演した映画『つづり方兄妹』でのブリキ屋のセットは、真先家が当時営んでいた鉄工所をモデルに作られたそうです。
 同町の「くらわんかギャラリー」では、友宏さんの父で、昨年亡くなった孝さんが大切に保管していた森繁さん直筆の手紙や色紙など、ゆかりの品が3月上旬まで展示されています。
 森繁さんが97年に随筆を出版した際、孝さんが送った手紙への返信はがきには、「あまり物を知らない私をそうほめては困ります」、「今度の本、どこが面白いのか、売り切れました。世の中にはモノズキが多いですね」などと謙遜の言葉が並んでいました。友宏さんの長男・達(とおる)さんの名付け親でもある森繁さんが、1歳の達さんを大阪市内の劇場で抱き上げている写真も展示され、友宏さんは「森繁さんは気さくで威張ったところのまるでない、本当に人情味にあふれた人でした」とその人柄を振り返っていました。
 「偲ぶ会」の会場ロビーでは森繁さんの次男・建さん(67歳)に会うことができました。口ひげ、あごひげを生やした面影は森繁さんそっくり。58年に枚方市内の旅館で、三味線を弾くなど余興を披露する写真を「父がここまで枚方に根ざした人だったとは知りませんでした」と感慨深げに眺める姿は印象的でした。
 「若い世代にも森繁さんの功績を伝えたい」。市葬開催を発表した時に竹内脩市長が口にした思いは、取材を通じて十分伝わりました。森繁さんへの興味は限りなく高まっています。


走る楽しさを感じたい〜ひらかたハーフマラソンを取材して〜    平成22年2月1日号

 今、世の中は空前のランニングブーム。テレビや雑誌でも特集が組まれているのをよく目にします。仕事帰りのサラリーマンやOLたちが夜の皇居や大阪城公園を周回し、汗を流す。仕事から帰ってきたら疲れて何もせずに寝てしまう、という生活を繰り返す私にとってはとても信じられないことでした。
 「仕事の後で汗をかくのは本当に気持ちいい。翌日に向けてリフレッシュできる」「仕事で嫌なことがあっても、走れば忘れられます」。気持ちの切り替え下手の私には、そんなランナーたちの言葉はとても魅力的で、「走りたい」という気持ちが日に日に大きくなっています。
 1月11日に枚方市の淀川河川公園で取材した「新春走ろうかい ひらかたハーフマラソン」もそのきっかけの一つ。今年で33回目を迎えた大会の参加者は過去最多の4256人。大会関係者も「年々、参加者が増えています。これも健康志向とランニングブームのおかげでしょう」と話していました。記事の写真を撮るためにカメラを構えると、次々とランナーたちの気持ち良さそうな表情が目に入ってくる。「走る」ことへの興味はわき上がるばかりでした。
 中でも印象的だったのが、女子ハーフマラソンで優勝した安田絵美さん(24歳・寝屋川市対馬江東町)。安田さんは、陸上部のOBらでつくる大阪国際大ACに所属し、特養老人ホームの職員をしながら練習を積んでいます。大学時代は中距離の選手で、卒業後から徐々に走る距離を伸ばしていったそうです。この大会では2年連続で3位。「次こそは」と雪辱に励んでいた矢先の昨年11月に仕事中に足を負傷、1か月間、走ることができなかったそうです。「スタート前は不安でしたが、周りのランナーの方々が応援の声を掛けてくれて、自然と笑顔になりました。楽しかったです」とレース後、満面の笑みで話してくれました。
 「ランニングの楽しさや気持ち良さを体験したい」と先日、ついにウエアとシューズを購入しました。後は走り出す機会を見付けるだけです。


新年気持ち新たに昨年の取材を振り返って〜    平成22年1月1日15日合併号

 明けましておめでとうございます。昨年春に枚方に赴任して早いもので9か月がたちまし
た。今年も新聞記事やこのコラムで、明るいニュース、ほのぼのするニュースなどをどんどん書いていきますので、身近な情報をお寄せいただければ幸いです。
 昨年を振り返ると様
々なことがありました。京都総局で迎えた年始、京都市に事務局を置く財団法人「日本漢字能力検定協会」が公益事業では認められない多額の利益を上げるなどしていた問題が発覚しました。総局に発足した取材陣のバックアップに東奔西走した日々を思い出します。
 4月末には新型インフルエンザが発生。5月に入り、カナダへの海外研修に行った寝屋川市の高校生の感染をはじ
め、関西を中心に感染禍が広がりました。ウイルスが引き起こす症状や予防法などを学びなが
ら、しばらくは不眠不休の取材が続きました。
 8月末は総選挙。民主党が大勝し、政権交代が成りました。しかも、地元の大阪11区から官房長官が誕生するなど、赴任当初には思いもよらなかったこと。初めて本格的にかかわる国政選挙で、約2か月間にわたる選挙取材を最後まで乗り切り、歴史的瞬間を目の当たりにできたのは、記者としての経験や自信を得ることができました。
 そして12月、2009年の世相を表す「今年の漢字」の発表が清水寺で開催されました。主催はあの漢検協会。前理事長親子が親族企業との取引で協会に損害を与えたとして逮捕、起訴されて、一時は実施が危ぶまれましたが、運営を刷新し、何とか開催にこぎ着けました。しかも応募は過去最多だったと聞きます。
 森清範・同寺貫主が特大の和紙に筆で書いた文字は「新」。新型インフルエンザや新政権誕生など――。みなさんも振り返ったことは同じだったようです。漢検協会は体制を一「新」し、国政も「新」たな首相で新年を迎え、私も気持ちを新たにしてこの一年、頑張りたいと思います。今年が良い年でありますように。


地元FM局に注目地元情報や災害情報充実〜    平成21年12月1日号

 11月は西日本で世間を騒がす大きな事件が相次ぎました。島根県浜田市の女子大生死体遺棄事件、鳥取市の男性連続不審死、そして大阪市では千葉でイギリス人女性の死体を遺棄して逃亡中の男が逮捕。我が社の記者たちが取材に東奔西走する中、私は体調を崩してしまいました。お恥ずかしい限りです。1週間、せきや鼻水が止まりませんでしたが、今では何とか体調は元通りになり、朝起きてラジオから流れている「エフエムひらかた」を心地良く聴けるようになりました。
 地域密着型のコミュニティーFM放送局は、北河内ではこの「エフエムひらかた」と「エフエムもりぐち(FM―HANAKO)」があります。赴任して間もない4月、京阪枚方市駅の東改札口をくぐると目の前に
「エフエムひらかた」のサテライト放送局があり、その存在を初めて知りました。試しに聴いてみると地域情報や地元のニュースが満載で、取材のアイデアを得ることもあります。
 「エフエムもりぐち」のパーソナリティー・三宅奈緒子さんが番組内のコーナーの取材で撮りためた守口・門真の風景写真の展覧会を先日訪れました。「地元の人でも知らないような所を紹介したい」という三宅さんに説明を受けながら色鮮やかな四季の風景に見入りました。中でも門真・砂子水路のサクラや守口・難宗寺のイチョウは私も一度、写真を撮りに訪れようと思っています。
 コミュニティーFMは災害時になれば、災害情報をいち早く提供してくれる頼もしい存在でもあります。10月7、8日に台風18号が上陸した際には、昼夜を問わず、情報を流し続けました。「エフエムひらかた」は11月21日からインターネット放送も開始し、電波が入りにくい地区やラジオがない場合でも、災害情報を含めた放送が聴けるようになりました。
 地元情報にあふれ、災害情報充実の地域FM
局。私にとって侮りがたいライバルであると同時に、地域にとって頼もしい存在。これからも聴き続けるつもりです。


枚方に菊の季節到来ひらかた菊フェスティバル開幕〜    平成21年11月1日号

 枚方市民が丹精込めて育てた菊花や菊人形を楽しんでもらう「ひらかた菊フェスティバル2009」が10月28日、開幕しました。11月16日まで、枚方市役所や枚方宿周辺などで様々なイベントが開かれます。
 このうち目玉は、市役所周辺や岡東中央公園で開かれる「菊花展」。1956年から始まった歴史ある催しです。大菊3本立て盆養、福助作り、だるま作りなどの愛好家たちによる力作のほか、市内の小・中学校で育てた菊鉢など計600鉢以上が並びます。同展実行委員会の佃卓・委員長が講師を務める「菊づくり連続講座」の基礎コースを卒業した研究生たちが意匠を凝らした総合花壇も展示されています。
 もう一つの目玉は、ひらかたパーク毎秋の恒例イベントで、惜しまれながら無くなった「ひらかた大菊人形」の歴史を受け継いだ「市民菊人形展」。「秋の風物詩の歴史を絶やしてはいけない」と発足した「ひらかた市民菊人形の会」が人形を制作して展示し、今年で4年目になるそうです。
 今回のテーマは「天地人」。市民会館大ホール前では、白馬に乗った直江兼続など5体の菊人形が登場。具足など小物のすべても会員による手作りで、生花の菊を扱うため、展示期間中、新しい菊に着せ替える作業もあるそうです。
 ほかにも、市立小・中学校で育てられた約200鉢の菊が、枚方宿の京街道沿いを飾る「枚方宿街道菊花祭」が開催中。ビオルネ前では市内の大学生や高校生がジャズやロック、ポップスなどを演奏する「菊ライブ」(11月7日)が行われるなど、多彩なイベントが催されます。
 今年は14ページ・オールカラーの「菊で彩る秋のイベント GUIDE BOOK」も制作されました。期間中のイベントのほか、飲食店や土産物店などの紹介もあり、手に取ると思わず市街地に繰り出したくなるような一冊です。枚方支局に赴任して初めての秋。「菊のまち・枚方を全国に知ってもらえれば」と願いながら、今まで経験したことのない数多くの菊に囲まれて、取材を続けています。


悲惨な交通事故をなくせ秋の交通安全運動を取材して〜    平成21年10月1日号

 半袖のYシャツが長袖になり、夜の取材や朝起きる時には少し肌寒い。ヒガンバナやコスモスも咲き始め、いよいよ秋の到来を感じさせる今日このごろです。記者にとってもう一つ、秋を感じさせるものがあります。それは「秋の全国交通安全運動」です。
 パレードや有名人を一日署長に招いて交通安全を訴えたり、警察署などが様々なイベントを催し、交通安全を広く啓発する意味から毎年、取材して紙面に掲載しています。
 今年の運動期間は9月21日〜30日で、重点項目として「高齢者の交通事故防止」「夕暮れ時と夜間の歩行中・自転車乗用中の交通事故防止」「全ての座席のシートベルトとチャイルドシートの正しい着用の徹底」「飲酒運転の根絶」の4項目。このほか、大阪府内の重点項目として「自動二輪車・原付の交通事故防止」「めいわく駐車・放置自転車の追放」の2項目を挙げています。
 枚方市でも9月18日に交通安全を啓発するパレードがあり、竹内脩市長を始め、交通安全協会の会員ら約300人がビオルネから市民会館までを練り歩きました。
 枚方署管内では今年1月から9月17日までに交通事故で10人が亡くなり、うち5人が自転車関連、4人が65歳以上の高齢者だったそうです。パレード最後の式典では堀之内孝一署長が「交通事故での死者数が昨年1年間の11人に迫っている。事故防止に向けて皆さんに協力をお願いしたい」と訴え、市立枚方幼稚園の園児たちが「私たちは飛び出しません。自転車に乗せてもらう時はヘルメットをかぶります」とかわいい交通安全宣言を行いました。
 毎年の交通安全運動の取材は、自分自身への良い戒めにもなっていると思います。
 交通死亡事故では被害者はもちろん加害者も色々なものを一瞬にして失う。取材する度に事故の悲惨さを痛感します。
 交通安全運動や事故の記事を目にして、交通ルールの順守や事故防止について少しでも考えていただければ幸いです。


復興に立ち上がる人たち台風9号豪雨被害の佐用町取材から〜    平成21年9月1日号

 8月9日夜から10日未明にかけての台風9号による豪雨は各地に被害をもたらしました。 兵庫県では20人が亡くなり、2人がいまだ行方不明です。中でも兵庫県佐用町では佐用川など町内の河川がはんらん。10人以上が亡くなり、約260棟が床上浸水するなどの甚大な被害が出ました。
 8月13日、取材で佐用町に入りました。泥まみれになった家屋、田んぼの真ん中まで流された自動車――。町の中心に近付くにつれ、息を飲むような光景が目の前に広がりました。
 豪雨から4日がたち、町は少しずつ、復興に向けて動き出していました。まず最初に出会ったのが商店街で書店を営む大野勝さん(66歳)。9日夜は午後9時前に外出先から帰宅。過去にも佐用川の増水で浸水した経験がある大野さんは、家族と一緒に急いで本棚の商品を高い所に上げようとしました。しかし、激しく流れ込む水は止まらず、見る見るうちに水位は肩までの高さに。大野さんは2階に避難することができず、本棚の上に上がり水が引くのを待ったそうです。
 商品である本のほとんどがダメになり、ぼう然としたという大野さん。しかし、「わしらは災害に負けずに頑張ってるという姿を新聞で全国に発信してほしい」と忙しい手を止めて快く取材に応じてくれました。
 大野さんがボランティアで店内の清掃作業に来ている1人の高校生を紹介してくれました。兵庫県立佐用高校2年の服部洋平君(16歳)。服部君の住んでいる安川地区はほとんど被害はなかったのですが、翌朝、新聞やニュースを見て、いても立ってもいられず自転車で町の中心部に向かったそうです。今回の水害で亡くなった小林彩乃さん(16歳)とは友人。「看護師になる夢を明るく話してたのを覚えている。彼女が生きれん分、町のために働こうという気持ちでいっぱい」とスコップを手に力強く語ってくれました。
 3日間しか佐用町にいることができませんでしたが、復興に立ち上がる人たちのことを伝えたいと今回、ペンを握りました。枚方に戻っても、佐用町が早く元通りの姿になること願ってやまない日々です。


Qちゃんに前途あれ高橋尚子さんを取材して〜    平成21年8月1日15日合併

 「新聞記者ってよく有名人に会えるん?」よくこんなことを聞かれます。その答えは「たまに会えるけど…」。
 あくまでもそれは「仕事」。舞い上がる気持ちを抑え、仕上げるべき原稿をイメージしながら質問をしなければなりません。
 〈ミーハー心〉がたまに打ち克ってしまう時も正直あります。一昨年末、作家の田辺聖子さんに会った時のことです。NHK朝の連続テレビ小説『芋たこなんきん』を毎日欠かさず、田辺さんの『新源氏物語』は面白すぎて一気に読破した記者としてはドキドキして仕方がなかった。
 当時は「源氏物語千年紀」の直前。千年紀の意義、物語が現代に語りかけること等々、聞かなければならないことはたくさんある。しかし、口を突いて出てくる質問は「テレビ小説のあの場面の話、本当っすか」、「新源氏のこの表現、笑えましたわ」。そんな質問にも気さくに答えてくれる田辺さんに大満足。意気揚々と作成した取材メモを目にしたデスクの怒り叫んだ一言は
「おまえ、これただのファンやないか!」。
 そんな苦い経験をしたこともありますが、最近、また少々舞い上がるような人に取材で会いました。シドニー五輪女子マラソン金メダリストの高橋尚子さんです。
 涙の引退会見はみなさんの記憶に新しいと思います。高橋さんはマラソン教室などでの指導活動を開始。6月28日に行われた大阪市の長居陸上競技場でのランニングスクールを訪れました。
 参加者と一緒に走りながらアドバイスをする高橋さんで印象的だったのが、やはり〈Qちゃんスマイル〉。気さくに声を参加者にかけながら常に絶やさない笑
顔。シドニー五輪でのゴールの瞬間、苦しいレースだったにもかかわらず見せたQちゃんスマイルに、何だかほのぼのさせられたことを思い出しました。
 世界陸上のキャスターを務める予定の高橋さんは終了後、「選手を温かくさせることができるような解説をしたい」と意気込みを話していました。新しい道を歩み始めたQちゃんに前途あれ。少々舞い上がりながら心からそう思いました。


夏の観劇はいかが8月30日(日)に門真市民ミュージカル〜    平成21年7月1日

 皆さんミュージカルと言えば、どのようなイメージを思い浮かべますか。あまり縁がない私には、「ブロードウェー」とか「劇団四季」とか、誰もが知ってるような言葉しか浮かびません。
 そんな中、ある記者発表の資料を手にしました。「第4回わがまち門真市民ミュージカル 記者発表を開催」と題された資料でした。「市民が演じる?しかも小学生から高齢者まで?」。プロの役者がやるものだと思っていたので、全く想像がつかない。記者発表は1か月も先の話でしたが、「行ってみよう」と早々に取材予定を組みました。
 「門真市民ミュージカル」は、演劇で地域を活性化しようと2004年からほぼ隔年で行われています。毎回オーディションで選ばれた出演者の多くは小中学生だそうです。
 5月31日、記者発表の前に行われ、出演者がほぼ全員集合した開講式をのぞいてみました。保護者に連れられた小学生らが気だるそうに座っている。「大丈夫かな」と不安も少し頭によぎりましたが、昨年出演した小中学生が劇中歌を披露するのを見て、その不安はすぐに吹き飛びました。
 楽しそうに歌う表情、一糸乱れぬそろった歌声。2か月間で50回を超えるけい古を積み舞台を経験した子どもたちの姿は不安を期待に変えてくれました。
 記者会見では、前回に引き続き、監修・作詞を務める劇作家・別役実さんが「心を一つにして舞台を作り上げる姿勢はすごい。いろんな所の文化活動を見ているが、かなり水準の高い舞台」。 知り合いの府議も政治の話をする時と同じぐらい真剣な表情で「終わった後、みんなが涙を流して抱き合う姿は絶対に感動やから」と会う度に勧めてきます。
 公演は8月30日(日)午後1時と午後5時の2回。チケットは1500円で、実行委員会事務局(エ06・6906・8001)や門真市民文化会館(エ06・6908・5300)などで販売中です。練習や本番を取材して、子どもたちの成長をこの目で見てみようと思います。
 皆さんも、夏の締めくくりに少し足を伸ばしての観劇はいかがでしょう。


読書のすすめ枚方で「ブックスタート」始まる〜    平成21年6月1日

 最近はまっていることは読書です。夜寝る前に自然と枕元の本に手が伸びたり、休みの日には喫茶店や公園などで読みふけったり。こんなに読書をするのは、新聞社に入る前の、時間が有り余りすぎたフリーター時代以来です。
 新聞記者になってからは、なぜかほとんど本を手にすることが無くなった。あれだけ読んだ小説も「記者は文章を簡潔に書くのが仕事。小説家は文章を飾るのが仕
事」「記事は真実。小説は虚構」なんて毛嫌いしたり。仕事が思うようにいかない新人時代だけに、そんなところにしか記者としてのアイデンティティーを見いだせなかったのだと思います。
 今では、映画化もされた万城目学の小説「鴨川ホルモー」を読みながら、自分でも家で小さく「ホルモー!」と叫んでみたり、夕張市の取材に当たった同期の女性記者らがまとめたノンフィクション「限界自治 夕張検証」に、手に汗を握ってみたり。昔に比べ、仕事に対する気持ちに少し余裕が出てきたということでしょうか。
 ところでみなさん、「ブックスタート」という運動はご存じでしょうか。乳幼児と保護者に絵本をプレゼントし、絵本を通じて親子の触れ合いを図ってもらうという運動です。
 1992年にイギリスで始まり、日本には2000年の「子ども読書年」推進会議で紹介され、瞬く間に全国に広がり、大阪府内でも約20の自治体が取り組んでいるそうです。枚方市でも今年度から始まり、1歳の誕生日を迎えた市内在住の子どもに絵本1冊がプレゼントされています。
 子どもが楽しい絵を目にし、お父さんやお母さんがひざに抱いて笑顔で読み聞かせる。ブックスタートは子どもの情操教育に効果があるとされています。記者も本の中の世界に引き込まれながらページをめくっている間は、心がとても落ち着いている感じがします。読み終わった時に爽快感や達成感を感じるにつけ、「本に触れることは大人の情操教育にもなるのでは」なんて思いながら読書を楽しんでいます。
 世の中では喧騒が続く今だからこそ、本を
手に、ゆっくりしてみてはいかがですか。


新しい出会い楽しみ枚方支局に赴任して〜    平成21年5月1日

 3月から枚方支局で北河内7市を担当することになりました。新聞社は全国に取材拠点の総支局があり、入社後の数年間は様々な地域を巡ります。千葉県内で2か所、淡路島の洲本支局、京都総局、そして今回の枚方で5か所目になりました。
 時間があれば街に出かけて取材する生活を
日々続けていると、「あんた、よう知ってんなぁ」と驚かれるぐらい地元の人よりもその土地に詳しくなることもしばしばです。
 枚方支局に赴任してから、四條畷市の「なわてロードガイド ゆずりは」というボランティアガイドグループの会
長・増山嘉彦さん(65歳)を取材する機会がありました。四條畷市は出身地の奈良県と山を挟んで隣。知っている土地という自負があったのですが、増山さんのガイドを聞くとそんなささやかな自信もすぐに打ち砕かれました。南北朝時代の南朝の武将、楠木正成の長男・「小楠公」正行が北朝方と激戦を繰り広げた四條畷の戦い。江戸時代に儒学者で本草学者の貝原益軒が訪れ
「あたかも陶淵明が桃花源記に書けるが如し」と美しさをたたえた田原盆地。増山さんの口をついて出てくる四條畷の歴史の深さに驚くばかりでした。
 その後、増山さんの案内で四條畷神社へ。道に面した鳥居の前は車で何回も通ったことがありましたが中に入るのは初めて。小高い丘の上にある神社から、河内平野が一望できる絶景に思わず息をのみました。数多くの人に取材で出会い、その土地への理解を深めていく。「また新しい場所での取材が始まったんだな」。そう実感した瞬間でした。
 駆け出しの千葉時代にお世話になった警察官とはいまだに電話やメールのやり取りがあります。淡路島から京都に異動した時には、あれだけ激論を交わした自治体関係者が「がんばれ」と淡路島名産のタマネギを箱いっぱい送ってきてくれました。「回った所は『第二の故郷』みたいになるよ」。入社間もないころ、ある先輩に言われました。色んな任地で人の温かさに触れるたび、「まさにその通りだ」と感じます。北河内での新しい出会いが楽しみでたまりません。。


サバのへしこ〜ハンセン病元患者の思いは    平成21年4月1日

 「サバのへしこ」という食べ物をご存じでしょうか。生のサバをぬか漬けにした若狭地方の伝統的な保存食で、塩辛く、あぶると酒のつまみにもなります。約4年前まで福井県小浜市に赴任していた僕は、取材現場や酒場などで、へしこを通して様々な人との出会いや交流がありました。
 「ふるさとの味がした。ありがとうな」
 同市出身のハンセン病元患者・竹村栄一さんから弾んだ声でお礼の電話があったのは、01年暮れ。入所先の国立療養所「邑久光明園」(岡山県)を訪れた際、土産にへしこを持って行ったところ大喜びされ、数日後にそう伝えられました。
 偏見や差別と闘い続けた気骨の人で、現地の通信部記者だった僕は竹村さんの里帰りの際に知り合い、取材もさせてもらいました。
 竹村さんはハンセン病やその歴史について多くの人に知ってもらおうと、療養所を訪れる人には、半世紀以上に及ぶ隔離と差別の歴史を語り、「無知であるが故に、人を色眼鏡で見る。そこから差別が生まれる」と力を込めていました。
 14歳で強制的に療養所へ入れられた竹村さんの古里への思いは強く、部屋には自ら撮影した小浜湾の写真が飾られ、戦前の小浜の町並みや別れた友人らなどについても、よく楽しそうに語ってくれました。
 望郷の念を持ちながら「社会復帰しても、外に家族はいない。この年で出ていっても仕方ない」と帰郷はせず、03年1月に療養所で静かに息を引き取りました。享年76歳でした。
 古里から遠く離れた土地で亡くなったことを知らされた時のぼう然とした気持ちは、今も忘れません。
 無知や偏見がどれだけ人を不幸にするのか。百貨店の物産展などでへしこを見かけるたびに、その複雑な思いもよみがえります。
    ◇
 私事ですが、4月1日付で東京本社広報部に異動することになりました。2年半にわたり、当コラムを書かせていただきましたことに対
し、読者や関係者の方々に心からお礼を申し上げます。ありがとうございました。後任は、京都総局から社会部に来た安恒勇気記者です。


元気の出る集い〜社会の中の難聴者・中途失聴者たち〜    平成21年3月1日

 大阪市の大阪産業創造館で開かれた市難聴者・中途失聴者協会の「協会設立20周年記念大会&第10回元気の出る集い」を取材してきました。難聴者や中途失聴者らが集い、講演などを通じて元気を与え合うイベントです。今回は、同協会理事長の宇田二三子さんのことを紹介させてください。
 「何度聞き返されても、嫌な顔をしちゃだめよ」。約2年半前、初めて宇田さんを取材した際、少しまじめな顔でおしかりを受けたことがあります。話が70歳前後になる僕の両親に及んだ時です。
 10年ほど前から、両親は少し耳が遠くなりました。身内という甘えから、疲れた時に話を聞き返されると「もういいや」と打ち切ってしまうこともありましたが、宇田さんによると、難聴の人にこうした態度を取るのは最悪。相手は傷つき、次から聞こえるふりをするようになるのだそうです。自分の傲慢さを指摘され、深く恥じ入りました。
 元看護師の宇田さんは33歳の時、原因不明の難聴が進んで聴覚を失い、一時は「生きていても仕方ない」とまで思い詰めましたが、家族や周りの支えで希望を見い出しました。
 「耳が聞こえないのは恥」と家に、引きこもりがちな毎日を送っていましたが、87年に大阪で開かれた「全国難聴者福祉大会」に初めて参加し、討論会などで熱心に発言する人々に衝撃を受けます。
 宇田さんは市難聴者協会(現、市難聴者・中途失聴者協会)に入り、90年に大阪で開かれた花の万博のボランティアや、手話コーラスなどに挑戦。活動を通じたくさんの人の輪ができました。「同じ障害を持ち、苦しみを味わっている仲間がいる。それを支える人々がいることを知るだけでも強くなれる」と、60歳を越す現在も、様々な企画を精力的に手がけています。
 元気の出る集いには、府内などから約300人が参加。その夜、宇田さんから「みんなが楽しんでくれていたらいいのですが。ありがとう!」とのメールが届きました。
 宇田さん、皆さんきっと楽しまれたはずですよ。僕もたくさんの元気と勇気をもらいました。


見知った顔〜取材を通じて出会った人たち    平成21年2月1日

 「あれっ」。
 新聞記者になって、間もなく10年目。テレビや新聞を見ていると、知った人が出ていて驚くことが多くなりました。駆け出しのころ、一緒に取材した同業他社の人、同僚、取材相手だった人――。先日、がん保険のCMでフィギュアスケート選手の井上怜奈さん(32

歳)を見た時もそうでした。
 井上さんは日米通算で3回の冬季五輪に出場し、「去年と同じ自分では嫌。どこかで成長し続けていたい」が口癖。父親の雅彦さんを肺がんで亡くし、自らも同じ病気を告げられながら克服した人です。米国籍を取得しており、06年のトリノ五輪米代表に選ばれた際、兵庫県西宮市に住む母親の玲子さんらご家族からお話を伺いました。
 井上さんは、ぜんそく治療のため2歳の時からリンクに立ち始めました。雅彦さんは仕事帰りにスケート場に立ち寄り、競技会のたびに撮影した写真をアルバムに収めて眺めるほどの子煩悩でしたが、「いい加減な試合は許さない」と厳しい一面もあったそうです。
 「親元を離れて成長して、早く強くなってほしい」。末期のがんに冒されていることが分かった雅彦さんは、20歳の井上さんにそう告げ、97年に46歳で亡くなりました。玲子さんには「手元で時間をかけて、怜奈を大人にしたかった」と打ち明けていたそうです。
 井上さんは渡米後、肺がんを宣告されますが、ジョン・ボルドウィン選手と出会い、2人で病気を乗り越え、トリノ五輪にペアで出場して7位に入賞。そして昨年1月、全米選手権の演技終了直後、氷上でプロポーズを受けました。
 そんな井上さんの成長やロマンスを、ご両親はどんな思いで見守っているのでしょうか。取材対象者が、その後どんな人生を送るのか、それを折に触れて垣間見ることができるのも、新聞記者の醍醐味だと思っています。
    ◇
 今号から、当コラム名を「枚方支局から」と替えさせていただきます。取材活動だけにこだわらず、身の回りで起きた様々な事柄もお伝えしようと考えています。変わらぬご愛顧をお願いします。


牧野村の道標〜大正から昭和、 そして現代を見つめ続けて〜    平成21年1月1日15日合併号

 明けまして、おめでとうございます。昨年に引き続き、コラムの担当をさせていただきます。  昨年は枚方市在住の水泳選手、中西悠子さんの北京五輪出場など明るいニュースもありましたが、同市や寝屋川市では親や同居人が幼児を虐待する悲惨な話題も。不況の中、年末には多くの派遣社員らが職場を追われました。今年こそは、いい年でありますように。
 さて、昨年末に大阪と京都を結ぶ枚方市黄金野の旧京街道沿いの工事現場で「八幡街道」と刻まれた道標が見つかりました。大正時代、八幡方面への近道が整備された際に立てられ、市教委文化財課は旅人の石清水八幡宮への道案内も務めていたと見ています。取材を進めると、当時の人々の思いも伝わってきました。
 道標は花こう岩で、長さ約1m80cm 、約30cm四方。京街道からは八幡市へ続く八幡街道が分かれており、見つかったのはその分岐点。「大正三年改修」との文字も刻まれ、市教委によると、枚方町(現枚方市)と合併する前の牧野村が村道として整備したようです。
 当時は仏教の影響が色濃く残っており、「旅人に道案内をする功徳が、亡くなった家族の供養にもなる」と考える人々が、地元に道標を作っていました。
 一方で、京街道はこの前後を境に寂れ始めます。10年に京阪電鉄、34年に淀川沿いに京阪国道(府道京都守口線)が開通すると交通の中心は西へ移り、60年代から周辺で始まった宅地開発で、道標もアスファルトの下に捨てられました。
 「高度成長期は、日本史の中でも特に遺跡や文化財を粗末に扱った時代。開発の波の中で、歴史的価値のある建物が随分破壊された」と、歴史地理研究者の中村武生・同志社大嘱託講師が教えてくれました。
 同じ時期に発表された、幕末の楠葉台場跡(枚方
市)の発掘ほど影響のある話ではありません。しかし日本が大きく成長する姿をひっそりと見守った道標が、混迷の時代に再び地中から出てきたことに何か因縁めいたものを感じるのは僕だけでしょうか。
 市はこの道標を、再び路傍に立てるそうです。


振り込め詐欺をなくせ〜大東市での新たな取り組み〜    平成20年12月1日号

 「ああ、またか」。警察から送られてくるファクスを眺めながら、事務所でしばしため息をつくことがあります。振り込め詐欺事件の発表で、被害者はほぼ決まってお年寄りや主婦。そんな中、四條畷署の提案で、身近に接するホームヘルパーらがお年寄りを犯罪から見守る「セーフティー・ヘルパー隊」が大東市に誕生しました。
 ご存じの通り、振り込め詐欺には決まった手口があります。
▽家族を名乗る男が、泣きじゃくりながら電話をかけてくる▽事件や事故に巻き込まれ、示談金がすぐに必要だと哀願する▽動転した被害者は近くの金融機関に駆け込み、言われるまま現金を振り込む――という経過をたどります。
 わずかなやりとりで約600万円を失った主婦を取材したことがありますが、心中のご無念さを思い、胸が痛みました。最近は「払い過ぎの税金や保険料を戻す」と偽る還付金詐欺も横行するなど、きりがありません。
 大東市の特別養護老人ホーム「和光苑」の介護職員ら約60人で誕生した「セーフティー・ヘルパー隊」は、警察の講習で防犯意識を高め、地域ぐるみで注意喚起するのが狙いで、府内では初めての試みです。
 同苑で行われた初の講習会で、署員らが詐欺や悪質商法の手口などを解説。寸劇などの手法で、「現金自動預け払い機の操作でお金が戻ってくることはない」「お金を払い戻すと言いながら、保証金を要求してきたら注意」とアドバイスしていました。
 女性の介護職員(35歳)は「訪問先に不審な勧誘はがきやセールスが来ることがよくあり、対応に困っていた。積極的に警察に相談や通報をしていく」と話し、同署はほかの福祉施設などにも協力を呼び掛け、隊員を増やしていくとのこと。
 府内の還付金詐欺や振り込め詐欺の被害は、9月末で588件、額にして計約6億2600万円と、共に前年同期の約2〜2・5倍。同署幹部は「訪問介護などでお年寄りと親しく接するヘルパーにも協力してもらうことで、被害減少につなげたい」と言います。
 「卑劣な犯罪だ」と憤るだけでは、被害は減りません。受話器の向こうでお金をだまし取ろうとする犯罪者に対し、こちらも守りを固めなければ。


親の思い〜枚方市の押し花アート展覧会で〜    平成20年11月1日号

 「逆縁ほど親を悲しませるものはないよ」。先日、電話で話をしていた折、母親からそんな言葉が出てきました。逆縁とは、仏道で年長者が年少者の供養をすることですが、ひいては親が子どもに先立たれることにも使われます。長男を亡くしたことをきっかけに押し花を始めた女性による展覧会の話をした折りでした。
 源氏物語千年紀に合わせ、枚方市楠葉花園町のくずはアートギャラリー(くずはモール本館3階)で10月、源氏物語に登場する四季の場面を押し花を使った絵画(押し花アート)で表す展覧会が開かれました。枚方市茄子作の押し花作家、湯田和子さん(68歳)の15年にわたる創作活動の集大成で、作品は自然への愛情に満ちていました。
 湯田さんはこれまで、国際公募展「ル・サロン」に入選し、全米最大規模の祭典「フラワーショー」の押し花部門でグランプリを受賞しています。
 題材としたのは、桜の散る中で光源氏が姫君と出会う「花宴」や、「浮舟」など。桜やアヤメ、藤、モミジ、ハギなど100種類以上の季節の植物を使った絵画を見ようと、6日間で約2100人が来る盛況ぶりでした。会場では手作りした押し花のしおりも販売され、8万8866円の売り上げは「読売光と愛の事業団」に寄付していただきました。
 湯田さんが押し花アートと出合ったのは、1992年。その2年前、交通事故で長男の眞さんを24歳で亡くし、「あまりにも突然のことで、現実を受け止めることができない時でした」と振り返る。家に閉じこもりがちでしたが、偶然出掛けた京都市で押し花アートの博覧会を見て、その世界に深く魅了されました。
 眞さんはバイクで全国を回り、大自然や野の花、動物をカメラに収めるのが好きだったと言い、湯田さんは「生きる力を失った時に押し花に出合えたのは、眞の導きだったと思うことがある。自然と語らいながら制作する時、私は息子と共に生きているんです」。眞さんが亡くなり、18年。湯田さんは時折涙ぐみながら、この痛みがなくなることはない、とも語ってくれました。
 「せめてわが子には、自分より長生きしてほしい」。逆縁という言葉を使った母親や湯田さんの押し花を通して、親のそんな思いを感じました。


芸術とは?〜大阪市での病院コンサートで〜    平成20年10月1日号

 「人は、自らの存在が脅かされている時にこそ芸術を必要とする」。
 先日、フランス国立リヨン歌劇場首席指揮者の大野和士氏とお話しする機会がありました。氏は公演で世界中を飛び回っていますが、紛争地域や病院などで闘っている人たちは皆、音楽や美術などを心から欲していると強調していました。僕自身にも身に覚えのある、興味深い話でした。
 お会いしたのは、大阪市北区の住友病院で開かれた、「こころふれあいコンサート」。コンサートに行くのが難しい入院患者らに病院で生演奏や歌を楽しんでもらうのが趣旨です。約300人が大野氏のユーモアたっぷりの解説付きで、プロの声楽家によるプッチーニやビゼー、シューベルトの歌曲などの美しい声音を堪能。約半年間入退院を続ける女性患者(61歳)は、
「音楽は好きだけど、病院にいるとなかなか生の演奏は聴けない。元気をもらいました」と、とても満足そうでした。
 大野氏は今月、無報酬で東京や大阪、広島、宮城など国内計9か所の病院や養護施設などで開催しました。
 きっかけは、これまでの公演活動です。ユーゴ内戦時、クロアチアのザグレブで公演をした時、爆撃の恐怖におびえながら聴衆は夜のコンサート会場に集まり、感涙さえ浮かべながら音楽を聴き、終わると灯火管制下の街並みに消えて行きました。日本でも入院中の子どもたちのために病院でミニコンサートを開いたところ、大はしゃぎでした。
 大野氏は考え込みました。「音楽は、本当に必要としている人に届いているのか」――。そんな思いが、今回の企画につながったそうです。
 阪神大震災の後、がれきの街角でギターを弾いていた若者たちの前に大勢の被災者が集まり、童謡の大合唱になった事などを、これまでに取材しました。そんな大きな話でなくても、音楽や映画、小説が僕自身の胸に深く刻まれたのも、どうしようもなく傷つき落ち込んだ時でした。
 「これからの劇場は、来てもらうのを待っていてはだめ。そんな人たちに足を運ばないと」と言う大野氏の音楽家としての意識に、深く共感しました。同時に、僕はそこまで積極的に人々の胸に飛び込んでいるのかと、反省もさせられました。


いじめはなくせるか〜寝屋川市中学生サミット〜    平成20年9月1日号

 「身勝手な10代の若者というイメージをなくしたい」。そんな思いで、寝屋川市では昨年度から市立全12中学校の生徒会役員らが、学校での様々な問題を話し合う「寝屋川市中学生サミット」を開催しています。そこでの話し合いを元に、駅前の清掃活動やいじめ根絶を呼び掛ける寸劇、募金活動などに取り組んでいます。先日も、サミットが同市議会本会議場で開かれました。議題は、「寝屋川からいじめをなくせるか!?」です。
 討論に先立ち、生徒たちが行ったいじめについてのアンケート結果が報告されました。12校で無記名で実施し、1〜3年の2568人から回答を得たデータによると、1学期中に半数近くがいじめに加わった体験があり、約4割がいじめに遭ったことが分かりました。
 もう少し詳しいデータを紹介すると、「いじめてしまったことはありますか」という設問に対し、「ある」と答えた生徒が男子で49・7%、女子で43・6%。割合は2年生が男子(53・2%)、女子(52・4%)とも一番高くなりました。また、「いじめられたことがある」は、男子が39・8%、女子が36・5%。
 いじめがあった時に「止める」生徒は学年が進むにつれて減り、逆に「何もしない」が増加したり、女子はいじめの対象がころころ変わったりする傾向も明らかになりました。
 生徒により、いじめについてこれだけ詳細なアンケートが実施、公開されることは全国でもあまりなく、興味深く聴かせてもらいました。
 続いて、参加者の57人が激論。いじめがあった時、「何もしない」が学年とともに増えることについて、「いじめる側の体力が強くなり、止められなくなる」との分析や「みんなストレスがたまっている。解消法も考えるべきだ」などの意見が続出しました。
 いじめは実態の把握が難しく、いじめられた本人以外は深刻に受け取らないこともあります。そして、今回の結果が同市に限ったことだと考える根拠は、どこにもありません。
 少なくとも同市では、いじめをなくそうと学校の枠を越えて話し合っています。そして「『いじめは絶対にだめ』というメッセージを、クラスに持ち帰りたい」と議場を出る中学生たちの後ろ姿に、頼もしさを感じました。


燃料や物価の高騰〜福井県小浜市の元アメフト選手〜    平成20年8月1日15日合併

 先月に続き、一次産業で働く人たちの話を。
 7月15日、日本漁業の窮状を訴えるため、全国20万隻の漁船が一斉に休漁しました。燃料高騰の折、どのような救済策が講じられるのか今もはっきりしません。以前の赴任先・福井支局で、さまざまな漁師と知り合いました。漁業の報道に接するたび、そんな人たちのことが思い浮かびます。
 6年前、漁師になるため大阪市から福井県小浜市にやって来た元アメリカンフットボールの選手がいました。道根文彦さん(31歳)といい、摂南大学(寝屋川市)やクラブチームの強豪「アサヒ飲料チャレンジャーズ」でレギュラーとして活躍。その後、幼いころからの夢をかなえたいと転身しました。
 身長1・81m、体重100キロの恵まれた体を生かしてディフェンスラインを務め、2000年度に日本選手権・ライスボウルで優勝。大声援を受けてプレーする充実した日々を送っていましたが、子どものころからあこがれだった漁師への道は頭を離れませんでした。
 そして01年、円熟期を前に「いつまでも現役ではいられない。夢をかなえたい」と引退を決意。知人の紹介で小浜市に移りました。午前4時前に出漁する毎日を送り、「今度は日本一の漁師を目指します」と、とびきりの笑顔で話してくれました。

 一斉休漁の知らせに、何度かためらいながらも道根さんに連絡を取りました。突然の電話に少し驚いた様子でしたが、ぶっきらぼうな中にも人なつこさのある声は、昔のままでした。
 「いや、大変です」。話が休漁のことになると、少し声を落としました。夜のイカ釣り漁は大型ランプをともすための自家発電でエンジンの回転を上げ、燃料を多く消費します。「1回の漁で、以前の3倍は金がかかるようになったかな」と話し、漁獲が少ないと大赤字になるそうです。
 道根さんはその後結婚し、4歳と2歳の子どもに恵まれました。「ここに家も買ったし、物入りなんですけどねえ」という苦笑いに、返す言葉もありませんでした。
 燃料の高騰に苦しむ人、食料の値上げに生活を切り詰める人―。「何でこんなことになってるんだ」と、最近はやるせない気分になります。


酪農家の生活〜北海道などの畜産農家を取材して〜    平成20年7月1日号

 北海道に土地を持って酪農を始める。乳牛の乳を搾りながら子牛の世話をし、チーズを作り、隣には愛する妻が――という牧歌的な情景は、多くの男性が一度は思い描くのではないでしょうか。僕も昔、そんな夢を抱いたことがありましたが、現実の酪農家の生活はなかなか大変そうです。取材で、その生活を垣間見る機会に恵まれました。
 「家族や友だちと離れていろいろ大変だけど、頑張っていこうと思っています」。昨年10月、北海道東部にある別海町の酪農家に嫁いだ細谷志津代さん(31歳・茨木市出身)が、電話口で明るく話してくれました。
 枚方市と友好都市提携を結ぶ同町は、現地で酪農を営む男性と関西の女性との交流会を毎年企画しています。24年前から続けられ、これまでに75組のカップルがゴールイン。細谷さんも06年の交流会で今の夫と知り合いました。
 同町は満天の星空やどこまでも続く緑の牧草地などがある自然豊かな場所ですが、生活はいいことばかりではないそうです。後継者の嫁不足は深刻で、動物の世話で旅行もままなりません。関西で接客業をしていた細谷さんにとっても干し草や飼料運びなどの力仕事はきつく、「まだまだ完全には慣れません」と苦笑い。「でも子牛はかわいいし、何よりいい伴侶に巡り合えました」。
 はい、ごちそうさま。幸せな生活を送ってくれるよう、祈っています。

 吹田市の万博記念公園では約300人の畜産農家が集まり、国産の牛肉や豚肉、鶏肉などを来場者に試食してもらうイベントがありました。
 家畜の飼料として使うトウモロコシなどの価格が高騰し、畜産農家の経営は年々苦しくなっています。国産品を味わう機会を作ろうと、JA全農が企画。人々の「少しでもおいしく安全な食品を食卓に届けようと頑張っているが、このままでは仕事を続けるだけ赤字がかさむ」という言葉は、重く響きました。
 酪農生活は、決して夢のようばかりではないようです。都市部で生活していると日々の食料がどこから来るのか忘れがちですが、酪農に限らず一次産業の後継者問題や食の自給問題にどう取り組むのかは、国民全体で考えるべき課題でしょう。


記者の仕事〜ムコ多糖症と闘う家族を取材して〜    平成20年6月1日号

 ムコ多糖症という病気をご存じでしょうか。
 糖分の分解酵素が欠乏する先天的な難病ですが、恥ずかしながら先日その病気と闘っている豊中市の中井耀君(9歳)と母まりさん(44歳)を取材するまで、病名も聞いたことがありませんでした。
 2人と会ったのはゴールデンウイーク中で、場所は大阪市中央区千日前の「デルフィンアリーナ道頓堀」。女子プロレスの試合の合間にリングに立って、観客に病気への理解と支援を呼びかけました。
 出場するレスラーの吉田万里子さんの厚意で実現したもので、2人は募金に応じる一人ひとりに頭を下げていました。そして「みんな温かく迎えてくれた」と喜ぶまりさんからは、悲壮感よりも、息子と一緒に病と闘う力強さを感じました。
 耀君の発病は2歳の時。保育所から「体が硬すぎ
る」と異変を知らされて受診し、病気が告げられました。遺伝子異常でムコ多糖が分解されずに体内にたまり、内臓や骨、脳に障害を引き起こすこともあります。
 まりさんは悲嘆にくれることなく、動き始めます。街頭やチャリティーライブなどで支援を呼びかけ続け、2005年には仲間10人で治療薬の承認や新薬開発などを求めるNPO法人「ムコ多糖症支援ネットワーク」を立ち上げました。米国などと比べて新薬の承認に時間がかかる「ドラッグラグ」の問題も紹介するなど活発な活動のかいもあり、昨年10月に耀君の治療薬が国内で承認されましたが、まりさんは「治療薬が合わない子どもたちが、まだ大勢いる。活動は続けたい」と強い意欲を見せます。
 「これからもリングから募金を呼びかけるなど、私にできる支援活動をしていく」。レスラーの吉田さんも試合後、僕に話してくれました。支援の輪が、少しずつでもこうして広がることを願ってやみません。そして特ダネを追いかけるだけでなく、中井さん家族の奮闘など人々の懸命な活動や思いを伝えていくのも、報道に携わる僕たちの仕事だと再認識させられました。
 同ネットワークは振り込みを通じての募金活動もしています。
郵便口座番号は01770‐4‐119876(口座名・特定非営利活動法人ムコ多糖症支援ネットワーク)。


子どもたちの居場所〜フリースクール「とれぶりんか」を取材して〜    平成20年5月1日号

 関西を中心に不登校児、肢体不自由児とその家族、友人らが公演活動を続けるフリースクール「みんなでつくる学校 とれぶりんか」が3月、枚方市のラポールひらかたで、オリジナルのライブや演劇を披露しました。筋委縮性側索硬化症(ALS)を発症しながら音楽活動に取り組む千葉県の男性も参加し、その縁から4月29日にはとれぶりんかが千葉県を初めて訪問。音楽を披露してきます。
 とれぶりんかは、元中学教諭の中川雄二さん(54歳)が、学校になじみにくい子どもの居場所を作ろうと設立。名前は、作家のユダヤ系ポーランド人、ヤヌシュ・コルチャック氏が、院長を務める孤児院の子どもたちとともにナチスに殺された「トレブリンカ強制収容所」から名づけました。「最後まで希望を失わなかったコルチャック先生の思いや、子どもの人権についての理解を広めたい」との思いからです。
 今回の公演に千葉県から駆けつけた舩後靖彦さんは、人工呼吸器を着けて手足がほとんど動かない状態。でも、専用の機器を使ってパソコンを操作し、病気と闘う気持ちなどをつづった約400の歌詞を発表し、ロックバンドを結成して音楽活動をしています。
 とれぶりんかが舩後さんの許可を得てライブなどでその歌を紹介するうち、舩後さんから「ぜひ一度お会いしたい」と申し込まれ、初の合同コンサートが実現しました。
 当日は約160人が詰めかける満員の会場で、ライブのほか小中学生らの子ども劇団もオリジナル劇を上演。さまざまな問題を抱えるメンバーたちが、この日は笑いも交えて熱演し、大盛況のまま幕を迎えました。
 そして舩後さんから「次はぜひ千葉で一緒にやろう」と申し込まれ、同県内のレストランを借りてコンサートを開くことに決まりました。みんな練習に取り組んでおり、この記事が掲載されるころには、公演も終わっているでしょう。
 「僕たちの活動を見て一緒に笑い、希望を失いがちな大人も子どもも、新たな一歩を踏み出してくれたら」と中川さん。全国に活動のすそ野を広げつつあるバイタリティーには、頭が下がります。
 そう、前を向いて歩き続けていれば、希望をなくす暇もなくなるのかも知れませんね。


こだわりの行事〜「枚方宿くらわんか五六市」がスタートから1年〜    平成20年4月1日号

 皆さんは、もう一度はお出かけになられましたか?
 京阪枚方市駅〜枚方公園駅の間で毎月開かれている「枚方宿くらわんか五六市」が、3月で開始から丸1年を迎えました。
「再び人々の行き交う活気のある街にしたい」という地元の人々の思いで、このイベントも枚方市で定着しつつあります。枚方宿のことは以前にもこのコラムで紹介させていただきましたが、初春の陽気に誘われ、先日また訪れました。
 枚方宿は、江戸時代に大坂と京を結ぶ街道の宿場町として栄えました。大正から昭和初期ごろに建った町家約30軒が残り、一昔前の雰囲気を漂わせています。この古い町並み生かしたまちづくりをしようと、昨年から毎月第2日曜日に沿道の商店や市民らが市と協力し、手作りの雑貨や食べ物、衣料品などを持ち寄って出店を並べ、ジャズライブなども開いています。出店数は約50店舗から20店舗増え、沿道の民家も手作りの小物を軒先に並べて販売するなど、積極的に協力する姿が目に付きました。
 沿道のあちこちで交流が広がり、「月に1回こうして店を出して人とおしゃべりを楽しめば、子育ての息抜きになります」と手作りの編み物を売る主婦(35歳)や、「散歩がてら、友人が出している店を妻や子どもと時々訪れます」という男性会社員
(36歳)など、さまざまな人が歩いています。僕もあちこちの店を冷やかしながら、とてもいい休日の午後を過ごせました。
 実行委員の一人で和菓子店経営の田中誓子さん(57歳)は「訪れる人はもちろん、地元の人や団体の協力がなくては五六市は成り立たない。将来は通りにすき間がないくらい出店が並び、歩行者天国にできるくらいのにぎわいにしたい」と意気込んでいます。
 何代も続く伝統行事以外で、新たにまちのシンボルになるイベントはなかなか作り出せません。こうして息の長い取り組みに挑戦している実行委員や地元の人々に、心からのエールを送りたいと思います。
 田中さんらは「手作りの雑貨やアクセサリー、料理など、こだわりのある品を売りたい人の出店は大歓迎」と話しています。問い合わせは、実行委へ。@080(1440)5611


食の安全〜中国ギョーザの中毒事件で〜    平成20年3月1日号

 最近は、冷凍ギョーザばかり食べています。もともと、あのパリッとした歯触りが好きだったこともありますが、例の事件以来、何と言っても安い。近くのスーパーでは12個入りの1パックが100円で売られ、仕事帰りに買い物かごへ入れる時は「本当にもらっちゃって、いいの?」と近くの店員さんを上目遣いに見るくらいです。国内で加工されたものばかりですが、それでも消費者の購買意欲は回復しないらしく、いつもギョーザは山積み状態です。
 中国製冷凍ギョーザの中毒事件では、僕も少し取材にかかわりました。「おい、枚方で毒入りギョーザが出たらしい」。2月3日午後9時ごろ、日曜日でのんびりしていた僕の携帯が鳴り、上司から告げられました。「どこかまだ分からんが、可能性のありそうな所を言うから、当たってくれ」との指示に、すぐタクシーに飛び乗りました。
 問題のギョーザを売ったスーパーは判明し、翌朝から報道各社が店の周りを取り囲みました。各社からの「問題のギョーザが持ち込まれた経緯を説明してください」との要望に男性の店長は応じ、カメラの放列を前に知っている限りのことを誠実に教えてくれましたが、経営にも影響を与えかねない事件だけに表情もこわばりがちでした。
 その店では「冷凍食品、該当売り場の商品をすべて撤去させて頂き、売り場の清掃、消毒を行っています」との張り紙を掲示。事情を知らない買い物客が「何かあったのか」と尋ねる場面が何度もあり、店員さんらは頭を下げて事情を説明していました。「気の毒に」と取材する側も思いました。その店も結局は被害者なのです。
 スーパーでの取材は終わりましたが「冷凍食品はしばらくどこでも買う気にならない。家族のことが心配で」と話した主婦(58歳)の言葉が忘れられません。家庭を持つ同僚も、事件以来食材の産地は必ず確認するようになったそうです。食べ物は毎日口にするもので、安全性には万全以上の心配りをしたいもの。まして家族に料理を届ける立場なら、その思いはなおさらでしょう。
 自分の体には無頓着な僕も、家族を持つとそうなるのか――。冷凍庫に詰め込まれた冷凍食品の山を眺めながら、そんなことを考えました。


ふるさとを守れ〜外来魚問題を取材して〜    平成20年2月1日号

 「変わった釣り方だな」。17年前、いとこに連れられて行った琵琶湖でキャッチ・アンド・リリースという釣り方を初めてした時、思いました。ブラックバスを釣るはしから水に戻していきましたが、当時は外来魚が固有の生態系を脅かすほどの問題になるとは、夢にも思いませんでした。「釣ったんだから、食べたらいいのに」とだけ感じた僕は、素朴だったのか問題意識がなさすぎたのか――。
 先日、淀川や琵琶湖の外来魚を駆除し、生態系を元に戻そうと頑張っている大阪市の市民団体「琵琶湖を戻す会」代表の高田昌彦さん(45歳)にお会いしました。釣りが大好きな高田さんは、1990年代から琵琶湖や淀川でブラックバスやブルーギルしか釣れなくなり始めたことから、外来魚問題にいち早く気付いた人です。
 「岸からは、魚が元気に泳いでいる姿しか見えないでしょう。でもそれは外来魚ばかり。昔からの魚は、もうほとんどいないんです」。淀川の河川敷で、高田さんはそう話してくれました。大阪市で生まれ、淀川や琵琶湖などで釣りをして育った高田さんにとって、外来魚問題に取り組むのは古里を守るのと同じこと。「このままでは、在来種はいなくなる」との危機意識を誰よりも持っている人です。
 外来魚は繁殖力が強く、国の天然記念物のイタセンパラや、フナ、コイなど在来種の卵や稚魚を食べ、川や湖固有の生態系を破壊します。府水生生物センター(寝屋川市)が淀川とその周辺で2004年に行った調査では、約10年前に比べブルーギルは43倍、ブラックバスが12倍に増加。逆にイタセンパラは25分の1に激減していました。
 高田さんはこれまで、32回にわたり淀川や琵琶湖で外来魚の釣り大会を開いていて、〈釣果〉は計約2270キロに上ります。「大会でとれる魚は、たかが知れている。でも釣りを通して、日本の水環境がいかに破壊されつつあるのかをたくさんの人に知ってもらえれば」と熱意を込めて語ってくれました。
 「古里は、私の宝物です」という人にはよく会います。でも僕を含め、そこを守るために何かをしている人は、どれくらいいるのでしょうか。そんなことを考えさせられる取材でした。


ガラスの校舎〜守口市立中学の学校新聞を60年ぶりに発見〜    平成20年1月1日号

 明けまして、おめでとうございます。昨年に引き続き、このコラムの担当をさせていただきます。どうぞよろしくお願いします。マイライフ新聞さんは、今年で発刊25周年。すっかり地域に根付いた新聞になられました。
 昨年は、枚方市にとって激動の年となりました。前市長らが競売入札妨害(談合)罪で大阪地検特捜部に逮捕され、僕も取材であちこちを駆け回りました。
 ただ周囲では、ほのぼのとした話題も。
 9月、守口市立第一中学が戦後間もない1947年に創刊した学校新聞「守口一中新聞 暁鐘」が、米国のメリーランド大で見つかりました。同中学の沿革史にも学校新聞の記述はなく、60年ぶりの発見になりました。
 GHQ(連合国軍総司令部)が検閲したのち米国に渡り、同大での保管資料に含まれているのを同中学の中野謹矢校長が知り、2年分のコピーを入手。中野校長は「学校新聞まで検閲対象だったんです」と驚いていましたが、一方で「当時の生徒たちがどんな生活を送っていたのかを知る貴重な資料」とも。
 当時、同中学は創立したばかりで、勉強する場所も近くの小学校に間借りしていました。資材不足でガラスもない校舎を建て替えてもらうよう、生徒たちが当時の市長に陳情に行った話、戦災で保護者を失った子どもらが市街地にあふれている様子、プールがないためか水泳部が近くの川で練習をするといった記事があちこちに見られます。
 こんな来し方を経て、現在の豊かな生活があるのだと実感しました。そして、これを読んだ同中学の現在の女子生徒が「豊かな今より、何だか昔の生徒たちの方が活気がありますね」と漏らした感想も印象的でした。
 今年はどんな年になるのでしょう。願わくば、皆様にとっていい年になりますように。それでは紙面で、または取材でお目にかかりましょう。


全てを大切に生きて〜高校生たちのメッセージから〜    平成19年12月1日号

 18歳のころ、自転車で中四国を一周したことがあります。一日に150〜200キロくらい、広島から愛媛、高知を回り、大阪、京都、福井などを約2週間かけて走破しました。来る日も来る日もペダルをこぎ続ける毎日。理由は何もなかったように思います。ただ、生まれ育った土地を離れて何かを成し遂げてみたかった。島根県から中国山地を越え、坂を下る時に味わった何とも言えない爽快な気分は、今でも覚えています。高校生を取材する機会があり、そんな昔を思い出しました。
 11月10日、高校生が自らの思いをつづる「第7回高校生フォーラム 17歳からのメッセージ」(大阪経済大主催、読売新聞大阪本社など後援)の受賞者の表彰式が、大阪市の大阪経済大で行われ、取材に行ってきました。
「みずみずしい文章」というものに、久しぶりに出合った思いでした。
 今年は全国の477校から2万9878点の応募があり、そのうちグランプリ3点、金賞9点、学生審査員賞1点を選出。グランプリを受賞した徳島県立池田高校3年の谷口リサさん(18
歳)は「18歳の私へ」と題し、18歳の誕生日を迎える瞬間の気持ちをまとめました。
 スポーツに打ち込んで恋愛は一方通行ばかり、肺炎で死にかけたり山で遭難しかけたりした17歳の自分。そんな1年を振り返り「人生の転機となる十八歳の年は、一生懸命一日を大切にしていこう。明日からの私、良い人生を送って下さい。全てを大切に生きて下さい。時計は零時をさした。こんにちは、十八歳の私」と筆を置いています。
 就職を来年に控えた谷口さんは「高校生活の終わりが近付く中で大きな賞をもらえて、感謝しています」と照れくさそうに笑っていました。
 そのほかの高校生も、これから大きな世界に出て行く希望や、何気ない日常の幸福についての考えをつづっていました。
 がむしゃらな気持ち、もどかしい気持ち、未来への希望――。今の自分はそんな誠実な気持ちで毎日を生きているかな、と少し恥じ入る気持ちになりました。そして自転車旅行をしたころの自分が35歳の僕を見たらどう思うのか、とも。
 「全てを大切に生きて下さい」との言葉に、そして過去の自分に励まされた気がする日でした。


表現力の磨き方〜二つの小学校の授業風景〜    平成19年11月1日号

 「子どもに表現力をつけさせるには、どうすればいいのか」ー。教育の大きなテーマだと思いますが、最近面白い国語の授業をしている学校を訪れる機会がありました。福井県小浜市に赴任していたころに取材した小学校の音楽の授業と共に、印象に残る授業でした。
 「知識を身につけるだけではなく、それを基に考え活用できる子どもを育てたい」。四條畷市立田原小では、そんな理念で国語の時間に徹底して「表現する力」と「考える力」を育てています。
 例えば、1年の授業では「消防車」や「消しゴム」について、どんな形をしているのかや、その用途について児童に発表させます。表現力と共に観察力や思考力などを養うのが狙いだそうです。
 授業は、同小の尾崎靖二校長が主導しています。26年前に交野市の教諭をしていた時代から実践し、少しずつ理解を得ていったと言います。「昔とは比べ物にならないくらいの速さで物事が進んでいく時代に生きていける子どもたちを育てたい」と尾崎校長。授業の準備にもかなりの時間を要するそうで、その熱意には頭が下がります。
 僕が小浜市にいた数年前、山間部にある全校児童が10人以下(当時)の市立下根来小では、児童たちが地元で長く忘れられていた子守歌をお年寄りから聞き取り「ねごりララバイ」と名付けて復活させました。
 リコーダーや鉄琴、バンジョー、三味線などを持ち寄って県内外でコンサートを開き、児童たちは大きな舞台にも慣れていきました。
 裏方で汗を流したのが、当時教頭をしていた大森和良という先生。大森先生は「田舎の子どもたちは、大人になって大きな世界に出た時に委縮しがち。舞台で自分を表現する機会を作ってやりたい」と放課後や週末にも楽器を指導して、この小さなバンドを作り上げました。「大きな中学校に進んでも、友だちに堂々と地元の話をしたい」と卒業していった子どもたちの笑顔も、すてきでした。
 大きな声を出して教科書を読んだり、四苦八苦して縦笛を吹いたりしていた30年近く前の僕のころの授業とは、随分変わったものです。あのころの授業も懐かしいのですが、両校のような教育も受けてみたくなりました


何の損害?〜枚方市の官製談合事件で〜    平成19年10月1日号

 何度も迷いましたが、やはり書いておいた方がいいと思い、筆をとりました。5月から枚方市内外を騒がせている談合事件のことです。起訴された前市長の中司宏さんについて、一部からどう考えても的外れな批判を耳にするからです。
 「税金を使い、市に十何億円もの損害を与えた前市長は許せない」。この数か月、こうした意見をよく伺いました。そのたびに、僕は心の中で首をかしげました。「損害って、何の?」。
 事件の舞台は、市内に建設中の第2清掃工場。'05年11月、建屋の工事を大林・浅沼組が、予定価格(56億円)の98%という異常な高率で落札しました。予定価格とは市が工事代金として払える最高額のことで、落札額がこれより安いほど予算、つまり税金が節約できる仕組です。
 全国市民オンブズマン連絡会議(事務局・名古屋市)事務局長の新海聡弁護士は「落札率は、通常80%以下。90%を超えると、談合の疑いが極めて濃厚」と解説します。
 「それ見ろ、ケシカラン!!」と目くじらを立てるべきなのでしょうが、今回の事件を最初から追いかけている地元記者としては、よく分からない点が多いのです。
 まず、工事の入札はこれ以前にも行われました。'05年8月、似たような内容の工事で予定価格は39億円でしたが、応募する業者が1社もなく流れてしまいました。ある業者は「安すぎる。あれでは請け負っても赤字になるだけや」と話します。
 議会答弁などによると、市は17億円を上乗せして標準的な価格にして2回目の入札を実施。55億円で大林・浅沼組JVが落札しました。
 ある市民団体は「膨大な税金が失われた」と街頭で中司さんを非難していましたが、どうでしょう。39億円という最初の金額は、この不況時に業者が魅力を感じないほど安いものでした。16億円を足しても、市に損害が発生するのか定かではありません。中司さんが業者からお金を受け取った事実もありません。
 検察は、中司さんが政敵とつながりのあった業者に工事を受注させないために談合を仕組んだと指摘。これに対し、裁判でどういう反応があるのか。実質的な損害も含め、真相はそこで明らかになるのでしょう。


終戦記念日を迎えて〜広島と大阪の戦後〜    平成19年9月1日号

 終戦記念日を前に、僕の周りで昭和戦争にからむ出来事が二つありました。一つは京都市に住む伯母が、62年をへてようやく被爆者健康手帳を取ったこと。もう一つは、戦時中に枚方市の「香里製造所」に学徒動員され、爆弾作りに従事した元女学生を取材したことです。
 伯母や母は1945年8月、知人を捜すため原爆投下から3日後の広島市に入り、被爆しました。市街地だった爆心地から半径約5キロに建物はほとんどなく、橋の上で倒れた馬、地面が熱を持ち、歩いているだけで発火したゲタなど、当時8歳だった母は、原爆がもたらした惨状は「記憶にこびりついて離れない」と言います。放射線の影響か現在も時々原因不明の発熱に悩まされています。
 被爆者健康手帳を持っていれば医療費が国の負担になりますが、当時は被爆者への偏見は根強く、縁談に悪影響を及ぼすことを心配して取得するのをためらった若い女性は相当な数に上ります。
 間もなく古希を迎える伯母もその一人でしたが、ようやく意を決して取得を希望。原爆投下後に広島市に入ったことを証言してくれる人を捜し、やっと念願を果たしました。
 伯母の話とほぼ同じ時期、「香里製造所」の火薬製造工場に学徒動員された元女学生ら約30人が、自らの体験をつづった手記「女学生の戦争体験」を出版し、当時の話を聞く機会がありました。
 出版したのは、大阪市の府立泉尾高等女学校などの元女学生。そのうちの一人で大阪市福島区の久保三也子さん(78歳)は「爆弾作りの体験だけは口に出すのも嫌だった」と打ち明けます。飛び散った火薬で顔にやけどを負ったり、黄だんにかかったように全身が黄色くなったりする生徒が続出するなど、劣悪な労働環境だったそうです。
 火薬を吸ったため臭覚や呼吸器に後遺症を抱える人々がいますが、国は学徒動員された人々にはほとんど補償をしていません。「当時は毎日知り合いの誰かが戦死したり、空襲で家を焼かれたりしていた。それに対し国が何かをしてくれるという発想はなかった」。久保さんらは口をそろえます。
 前線、銃後の境もなくこれだけの犠牲を出したあの戦争とは何だったのか。当時を生きた伯母や両親とも、また話し合ってみようと思っています。


人生をやり直せるなら〜旧家での古文書発見で〜    平成19年8月1日号

 母の口癖は「もう一度人生をやり直せるんなら……」です。やり直したいのは勉強か、仕事か、それとも連れ合いか。口をつぐむその先で、何に思いをはせているのかは知るよしもありません。
 若年の僕がそんなことを考えることはあまりないのですが、魅力的な仕事に就いている人を取材している時「もし新聞記者じゃなく、こんな仕事をしていたら」と考えることがあります。先日、歴史学者の人たちから話を聞いている時がそうでした。
 7月20日、枚方市内の旧家から約2700点に及ぶ古文書が見付かったと市教委が発表しました。内容は、法隆寺が平安―鎌倉時代に周辺の土地を購入した証文という、我々素人には価値判断に迷うもののほか、浅井長政や細川忠興、藤堂高虎ら戦国武将による書状など。
 収集したのは、現在の枚方市に住んでいた江戸時代後期の医師三浦蘭阪。この人はいわゆる歴史マニアで、仕事の合間を見付けてはあちこちで古文書を集めたり筆写したりしていました。日記をのぞくと「文化人仲間と法隆寺を訪れると僧からこれこれの古文書を譲り受け、みんなで持ち帰った」といった内容が、喜々としてつづられています。
 発表の場でこんな話を解説してくれたのが、大阪大大学院の梅村喬教授や市史資料調査専門員の馬部隆弘さんらでした。平安時代の男が、亡くなった母親の埋葬地を買うため寺に土地を売る経緯や、関ヶ原で敗れた前田玄以が細川忠興に所領安堵の仲介を願う様子などを面白おかしく話し、数百年〜千年以上前の人々が、史料の中から躍り出るようでした。
 メモを取りながら、ふと「もし学者になっていたら、僕も記者を前に目を輝かせて昔の人々について語っていたのだろうか」と考えました。
 聞くと、学者や研究者は日中は大学の授業や採点、所属する図書館の業務をこなし、夕方以降は深夜まで専門書を読んだり論文を書いたりしているそうです。仕事が好きで、一つのテーマを追い続ける根気が最低限の必要条件のようです。
 いま就職をやり直したいとは思いません。しかし人生を振り返る年齢になるころには、僕の中にもかなわぬ転職候補が幾つか芽生えているのでしょうか。そして母のような口癖を……。


子ども様の時代〜2件の遊具事故で〜    平成19年7月1日号

 枚方と門真の両市で学校や公園の遊具が壊れ、遊んでいた児童たちが軽傷を負う事故が起きました。直後に市の担当者や警察官らが駆け付け、市内の全遊具を点検する騒ぎに。子どもの安全を確保するのは当然なのですが、個人的には何だか大げさな気がするのです。
 枚方市では5月21日、市立津田小学校でブランコの座板が外れ、乗って遊んでいた小学3年の女児(8歳)が落ちて背中などに軽傷を負いました。座板と鎖をつなぐボルトが老朽化して緩み、外れたことが原因のようで、市教委は75か所の市立学校や幼稚園に遊具の点検を求めました。
 門真市でも、今月11日に三ツ島北児童遊園でブランコの座板が外れ、小学6年の男児(11歳)が落ちて右足に軽傷。座板と鎖をつなぐナットが故意に緩めてあり、門真署は器物損壊容疑で捜査を始め、同市は公園などにあるすべてのブランコを緊急点検しました。
 ご家族の心配はもっともですし、子どもたちが集まる学校や公園での無責任な遊具の管理やいたずらに対し、世間は目を光らせるべきです。ただ、子どもが擦り傷を負って周りが慌てふためき、マスコミがそれを大きく報じる構図というのは、僕自身が当事者にもかかわらずどこか釈然としません。
 僕が小学生のころ、けがをした児童がいても、気にかけてくれるのは親や担任の先生くらいでした。遊具でけがをするというのは、木から落ちたり貯水池にはまったりするのと同じ日常の出来事だったように記憶していますが、今では世間を巻き込む事件となり、行政が再発防止策を練り、警察が犯人捜しに全力を挙げるようになりました。
 ご存じのように、この変化は子どもの数と関係しています。厚生労働省によると、女性が一生の間に生む子どもの数を示す合計特殊出生率は、僕の生まれた1972年に2・14だったのが、昨年には1・32。1家族に子どもは1人くらいに減り、つい30年前には騒がしいだけの存在だったいたずらっ子も、大切に大きくせねばならない〈子ども様〉になったのです。
 「子どもはけがをして危険を学ぶもの」という時代に育った僕には、今の風潮は行き過ぎのように思えて仕方がないのです。


枚方宿への思い〜古くからの通りににぎわいを〜    平成19年6月1日号

 ついに中年太りが始まったのか、ぐんぐんウエストが広がっています。「このままではズボンが一着もはけなくなる」という情けない危機感から、散歩を始めました。京阪枚方市駅前から淀川河川敷、枚方公園駅を経由して戻ってくるコースで、距離にすると3キロくらいでしょうか。毎日朝か夕方に、40〜50分かけてゆっくりと歩いていますが、先日少し素敵な発見がありました。
 ご存じの通り、辺りは江戸時代に宿場町として栄えた「枚方宿」。大正から昭和初期に建てられた町家が並ぶ、趣のある土地です。先日も宵に歩いていると、ジャズライブの音楽が聞こえてきました。音のする方向へ向かうと、そこはおしゃれなレストラン。そのほかにも、町家を利用した陶器店や雑貨店などが並んでいました。「いい雰囲気だなあ」。思わず声に出して見歩きました。
 日を改めて取材に伺いました。レストランは「モガ・ジョガ・ダイニング枚方宿」という名前で、4月にオープンしたそうです。イタリアンやフレンチを扱い、オーナーシェフの小川丈二さん(42歳)が1938年に建てられた町家を改修しました。
 「江戸時代のように、ここを人々が行き交う活気のある通りにしたい」と小川さんは熱を込めます。もともと宿場町に店を構えるのが夢で、枚方宿の雰囲気に魅せられ、8年間続けた守口市のレストランをたたんでやって来ました。店を使ってジャズやクラシック、演劇を上演し、通りのにぎわいに一役買っています。
 レストランの向かいにあるのは、築約80年の町家を利用した雑貨兼喫茶店「ルポ・デ・ミディ」。フランス語で「昼休み」という意味で、昭和を過ごした人なら誰でも「懐かしい」と感じるレトロな内装です。経営者の宮地なおみさん(33歳)は、もともとインテリアデザイナー。「枚方には本当にくつろげるお店が少ない」と感じてここを始め、「休日などにここへ来て、のんびりした一時を過ごしてほしい」と語ります。
 いま、枚方宿の町家を使って店を持つことや入居を希望している人は約60人いるそうで、地元の人たちも「新しい発想で、一緒にまちづくりをしていけたら」と期待しています。人々の思いに支えられ、昔ながらのまちなみに再び活気が戻ることを願ってやみません。


とっさの行動    平成19年5月1日号

 4月18日午後0時20分ごろ、枚方市招提田近の発泡スチロール製造工場で火災があり、現場に向かいました。京阪枚方市駅から北東の空に黒煙が立ち上っているのがはっきりと見えたので、煙をご覧になった方も多いのではないでしょうか。火事現場では、さまざまな行動を目の当たりにします。
 「消防の2次出動がかかりましたので、現場に向かいます」。本社に電話でそう伝え、カメラを肩に提げて支局を出たのが午後1時ごろでした。
 消防本部では、火災の通報があるとまずポンプ車や指揮車、救急車など数台の混成部隊が現場へ急行します。小規模の火災ならそのまま消火に当たるのですが、規模が大きいと応援要請で2次出動がかかります。新聞社も大きな火災に発展する可能性があると判断し、記者が現場に走ります。
 僕が工場に着くと、鉄骨4階建て延べ約1万2600平方メートルの3、4階部分が焼け、発泡スチロールを焼く大きな黒煙が上っていました。現場で写真を撮って次にすることは、関係者から話を聞くことです。中に取り残されている人はいないのか、救出劇はなかったのかなど、現場でしか聞けない話は山ほどあります。
 「あまりの煙に、消火はあきらめて逃げた」などの生々しい話を聞くうち、あることに気付きました。作業員全員が、胸ポケットにタイムカードを差し込んでいるのです。「やはり給料の元。避難するときでもこれだけは持って出たのか」と思って尋ねてみました。
 「逃げ遅れた人がおらんか、事務員が配って回ったんや」。年配の従業員の答えに思わずうなりました。現場の消防隊員は、まず行方不明者がいないか確認を求めます。この方法ならあやふやな記憶に頼らず、安否が迅速かつ正確に分かります。自分の浅はかな推察が恥ずかしくなりました。
 火災は出火から約6時間後に建物の3分の1を焼いて鎮火。けが人や行方不明者がなかったのが、せめてもの救いです。
 危険を顧みず、消火のため上階に駆け上る作業員やタイムカードを配る事務員、全員無事を確認した後、冷静に焼けた在庫分の手配をする管理職……。とっさの行動が求められる火事現場では、よく人々の本当の姿を見た気分になるのです。


はなむけの言葉〜ええ記者になるんやで〜     平成19年4月1日号

 3月は、多くの勤め人にとって別れの季節。先日、お世話になった四條畷署の幹部が退職されると知り、あいさつに伺いました。幹部は「あんたはこれからの人間や。頑張りや」と僕を見て、何度もうなずきました。お別れの時、そんな一言をたくさん頂きます。駆け出し時代にお世話になった福井県警の警官も、この時期に「ええ記者になるんやで」と僕を送り出してくれました。
 ご承知の方も多いでしょうが、新米の新聞記者はまず地方の総支局に赴任し、そこで警察担当、いわゆる〈サツ回り〉を経験します。日々警察署を回って事件や事故を取材し、親しい警官とは夜に自宅を訪ねて酒を飲み、雑談がてら捜査の裏話を聞いたりもします。
 1999年、僕が福井支局で1年生記者だった時、福井南署に茂幸雄さんという生活安全課長がいました。同課主催のイベントなどを記事にすると喜んで「すまんなぁ。また署に寄ってや」と話し掛けてくれるように。
 茂さんは、非行を繰り返す少年宅に出向き、涙ながらにどなりつけるような人情家。特ダネを何でも教えてくれる人ではありませんでしたが、僕の事件取材の方向がずれてしまった時などは、さりげなくそれを教えて軌道修正してくれました。
 2001年3月、転勤のあいさつのため訪れた僕に茂さんは「坂木さん、ええ記者になるんやで」とだけ言って笑顔で見送ってくれました。
 その後、茂さんは三国署(現坂井西署)副署長を最後に退職。何かと疎遠になっていましたが、再び消息を知ったのは'04年春でした。退職金を投じて自殺の名所「東尋坊」(福井県坂井市)に相談所を設置し、仲間と共に思い詰めた人々の話を聴き、行政窓口や弁護士の紹介などを始めたのです。
 「東尋坊を管内に持つ三国署の副署長をしていた時、救える命を助けきれなかった。今後の人生は、自殺防止にささげる」という茂さんの言葉が新聞に載っており、「あの人らしい」と思いました。
 多くの励ましを受けて現在の自分があるのだと、別れの季節は強く感じます。まだいい記者には遠く及びませんが、今度福井を訪れる時には、あのひょうひょうとした茂さんの顔を見てみたいです。そして、別れてからの数年間を語り合いたいと思っています。


先生の存在〜寝屋川市の教職員殺傷事件から2年〜     平成19年3月1日号

 寝屋川市立中央小での教職員殺傷事件から、2月14日で2年がたちました。これを機に読売新聞の14日夕刊、15日朝刊で事件にかかわった人々が歩んだ道のりや思いを掲載させていただきました。取材の過程で、犠牲になった同小の鴨崎満明教諭(当時52歳)の話が何度も出ました。かつての教え子たちから「鴨ちゃん」と親しまれる教諭のことを取材するうち、小学校時代に僕の担任だった先生を思い出しました。
 「二郎ちゃん、君は水泳では誰よりも自分に厳しい。その厳しさを普段も持てないか」。僕が3、4年生だった時の担任は、永山先生という男性教諭でした。この人が僕に言ってくれた一言が、今でも僕の胸に刻まれています。
 永山先生は当時30歳代で、給食と広島風お好み焼きが大好物。給食時にはいつも給仕当番の児童に「先生のは大盛りにしてくれよ」と笑顔で話し掛け、下校前の「終わりの会」では、ギターを弾きながら鉄腕アトムや吉田拓郎の歌を僕たちと一緒に歌いました。
 勉強が苦手だった4年生の僕が、唯一得意だったのが水泳。夏の体育の授業だけは頑張っていました。何かで失敗した時、永山先生が言ってくれたのがその言葉でした。しかられているのに「見る人は見てくれている。もっと頑張らなきゃ」とうれしくなり、少しだけ自信が持てました。
 今回の取材で、小学6年のとき鴨崎教諭が受け持った男性(18歳)の話が出てきました。当時「学年でも1、2を争うほどの問題児」だった男性に、鴨崎教諭が「お前、大丈夫か。おれの弟子になるか」と声を掛け、〈一番弟子〉にしました。
 友達が少なく、休み時間も1人で過ごしていた男性をある時、鴨崎教諭が教室の外に呼び出し「困った時、苦しい時でも上を向けば明るいものがある。上を向いて生きろ」と語り掛けました。男性は「悩んでいた時期だったので勇気づけられた。今でも大切にしている一言です」と振り返りました。
 先生の存在は、子どもの成長を大きく左右します。僕にとっての永山先生、そしてたくさんの人たちにとっての鴨崎教諭。そんな温かい存在に多くの子どもたちが出会えることを願ってやみません。 最後に、鴨崎教諭のご冥福をお祈りします。


被災者たちへの応援歌〜阪神大震災から12年〜     平成19年2月1日号

 「当時の記憶が、あまりないんです」。阪神大震災の被災者を取材していると、よくこの言葉を耳にします。明け方、突然の大揺れで家から逃げ出し、がれきの中を歩いて避難所へ。そこから避難生活が始まり、次々に知人や最悪の場合肉親らの悲報を聞くころになると、記憶が飛び始めます。
 想像を絶する体験をして思い出の重さに心が耐えられないと判断した時、脳は無意識の内にその記憶を削除するそうです。枚方市で取材したシンガー・ソングライターの芋月彩希さん(24歳)もその一人でした。
 芋月さんは小学6年の時、神戸市東灘区で震災に遭いました。自宅は半壊し、電気や水道は数週間ストップしたまま。学校の先生や下級生らを亡くし、6日後の12歳の誕生日は、39度の熱にうなされながら迎えました。
 両親から「おめでとう」と言ってもらえたのが、その日の唯一の記憶で「そのほかに、何をして誕生日を過ごしたのかほとんど覚えていないんです」と話します。
 そんな体験を乗り越え、枚方市に移り住んだ芋月さんは震災から10年を機に歌手としてデビュー。現在も「クレセント」というバンドを組んで歌い続け、自身のホームページには「歌に元気をもらった」「生きていくすべての人に贈る人生の応援歌や」といった書き込みが多数寄せられています。
 阪神支局員時代、さまざまな被災者を取材しました。教え子を失い、10年以上かけて悲しみを克服し、追悼の芸術祭を開いた美術教師の女性、小学生の時の被災体験から「命を守る仕事がしたい」と誓い、小児科の看護師を目指す女子学生――。ほとんどの人たちは、前を向いて歩き始めています。ですが1月17日だけは、断片的な「あの日」の事ばかりが脳裏をよぎるのだそうです。
 今年の1月17日、夜に一人住まいのマンションへ戻った僕は、芋月さんから贈られたCDを聴きました。

 激しい波にも
 動じないで
 生きることは難しい
 もしそれが本当でも
 君だけは幸せに
 人生の海を渡ってよ―

 しっとりとした歌声で流れる応援歌は、震災取材で出会った人々のことを思い出させました。


世の中捨てたもんじゃない     平成19年1月1日号

 明けまして、おめでとうございます。今年もこのコラムでは、地元の話題を中心に僕が日ごろの取材で感じた事を紹介させていただきます。ご自宅の庭に咲いた美しい草花から大物政治家の汚職疑惑(?)まで、お気付きの情報をマイライフ新聞社さんか読売新聞枚方支局(072・841・6565)に、どしどしお寄せください。
 昨年の1年間、府内でもさまざまな出来事がありました。天満天神繁昌亭オープン、阪急と阪神の経営統合、大阪拘置所の刑務官による汚職事件――。飛鳥会の理事長逮捕など、同和をかたった不正では次々と逮捕者が出ました。
 僕の周囲では、少しだけ心に残る出会いもありました。昨年12月に枚方市内で出会ったミニチュア・ダックスフントの「もも」と周囲の人々がその一つです。
 7歳前後のメスで、枚方署が2月に保護した時には体長約40センチ、体重が2・8キロで前の飼い主による虐待と見られる傷が体中にあり、失明状態。全身が骨と皮だけのようだったそうです。
 ボランティア団体「ちょいボラァー」(枚方市)代表の西中遼さん(24歳)がももを一時的に引き取りました。市内の愛犬家の女性が自宅でももの世話を続け、体重も4・4キロまで回復。ビラを配って飼い主を募集しましたが、なかなか名乗りを上げる人は現れません。
 西中さんは一人で、ももの写真を持って、枚方市役所内にある記者クラブを訪問。新聞に「飼い主募集」の記事を掲載するよう僕たち記者と交渉しました。「ももを幸せにしてくれる人を見付けてやってください」と頭を下げる熱意にすっかり押し切られ、ももの仮住まいへ足を運びました。
 後日、記事は「温かな家探してます」という見出しと写真付きで読売新聞に掲載され、その日の夕方に西中さんから私に電話がありました。弾んだ声で「おかげさまで、たくさんの方から『飼いたい』という申し出がありました」との事。僕も心が弾みました。
 記者になって、今年で8年。いろんな人と出会いました。学校などで好き放題に振る舞う子どもや親たち、公職選挙法違反で逮捕される直前の町長、殺人者――。孤独や貧困、空虚感など極限の状態にある人たちは、時として身勝手になります。そんな人たちと接するうち、取材する側も人間不信になる事があります。
 その反面、今回のように温かい人たちに出会う事も。発展途上国で女性の衛生的なお産に尽力する産婦人科医、損得抜きで国選弁護人ばかり引き受ける貧乏な弁護士、実業団の強豪アメフト部を辞めて、あこがれだった漁師になる人――。そんな時、思わずにいられないのです。「世の中、捨てたもんじゃない」と。
 今年はどんな人たちと出会えるのでしょうか。いい出会いを紙面を通じて読者に届け、年末に「いい年だった」と振り返ってもらえるよう、願ってやみません。


何のための成人式?〜枚方市の来年の式典を巡るドタバタで〜     平成18年12月1日号

 遊園地「ひらかたパーク」で10年間続いた枚方市の成人式が、来年から市内の19中学に分散して開かれる事になり、これに反発した新成人たちと市との話し合いは最近まで続きました。開催まで時間的にもぎりぎりの中、「そこまでして、成人式を開く必要があるのか」という疑問が頭をよぎりました。
 「なぜ自分たちから一度も意見を聴く機会を設けなかったのか」「成人式の企画に私たちも交ぜて」――。これまでの市教委との意見交換会で出た新成人たちの意見は、この2点に集約できるでしょう。
 事態が紛糾した原因の一つに、市教委の対応のまずさが挙げられます。市教委によると、ひらかたパークが来年の成人式への会場提供を断ったのは6月。その後も事実を明らかにしないまま19中学での分散方式を独自に決定し、10月の広報でいきなりその旨を告げました。ひらかたパークでの開催は、市民らによる実行委員会で決めたもの。いくら市教委が主催でも、これでは「強引すぎる」という印象がぬぐい切れません。
 その一方で、新成人たちがやっている事にも全面的には賛成できません。
 新成人たちが市内で配っているビラには、祝日法の「美しい風習を育てつつ、よりよき社会、より豊かな生活を築き上げるために、ここに国民こぞって祝い、感謝し、又は記念する日」という祝日の定義が掲げられ、市の独断で式典の内容を決めるのはその意義に沿っていないとしています。
 第一に、なぜ「国民こぞって祝い、感謝」する場が「ひらかたパーク」でなければならず、そして分散方式ではだめなのか。新成人たちからはいまだに明確な答えはありません。
 第二に、同じ祝日法の中で成人の日は「大人になった事を自覚し、自ら生き抜こうとする青年を祝い励ます」日と定義されています。つまり、成人式とは新成人が内容を決めて互いを祝福する場でも同窓会でもないのです。
 気になる事がもう一つ。一部の熱心な運動と比べ、ほかの新成人からの声がほとんど聞こえません。来年成人式を迎えるのは市内で約4800人ですが、市との1回目の意見交換会に来たのは約120人、2回目に至っては約40人に過ぎません。市教委はメールによる意見も募集していますが、届いたのは新成人以外を含めても11月20日現在で112通。
 2000万円以上の税金を投入してここまで意見の割れた、あるいは関心の少ない式典を開く意味は、どれほどのものか。「20歳になった記念に何かしたい」という気持ちは分かります。しかしそれは新成人同士で連絡を取り合い、自費でホテルやレストランを借り切ってでもできるはず。
 全国的に、成人式の定義や意義が揺らぎ始めています。何のための式典か、これを機会に論じ合ってもいいのではないでしょうか。


忠実と想像力
 
〜府史跡「伝王仁墓」の百済門建設で〜     
平成18年11月1日号

 朝鮮半島・百済から渡来して漢字や儒教を教えたとされる王仁博士をまつる府史跡「伝王仁墓」(枚方市藤阪東町)に百済門(高さ5メートル、幅6メートル)が建てられ、10月14日に完成式が行われました。日韓の民間グループが協力し、総工費2700万円を工面。式典で楽しそうに談笑する両国の人々を眺めながら、史実と想像力の面白い関係を感じていました。
 「NHK大河ドラマにあやかった観光PRはできないか」。僕が福井支局小浜通信部で勤務していた2年前、若狭地方のある町議会で議員がそう提案しました。今年放送の「功名が辻」にちなみ、戦国武将・山内一豊が一時期治めたとされる地元を売り出そうとの内容でしたが、町長は「山内氏がここに居住した事を示す資料は少ない。確たる実態のないものを活用するには無理がある」と答えました。
 山内家が編さんした「山内家史料一豊公記」や町誌によると、一豊は1585年6月から3か月間、若狭西部を領国としていました。しかしそれ以外には、一豊が実際に若狭地方へ赴いた事を示唆する記録は見当たりません。宣伝に否定的な町長に、議員は「歴史はロマンをかき立てるもの。不確かな要素があってもイメージをふくらませ、どんどんPRすればいいのに」ともどかしさを隠し切れない様子でした。
 枚方市と王仁博士の関係も、史実と照らせば不確かな要素がたくさんあります。伝王仁墓は、中世に付近の住民らが自然石を王仁博士の墓としてまつっていたとの記述が古文書に出てくる事から、江戸時代に領主がその石を王仁博士の墓とし、「博士王仁之墓」と刻んだ碑を建てたのが始まり。そもそも、王仁博士の存在自体を疑問視する学説すらあります。
 それでも枚方の人々は、王仁博士とのゆかりをPRし続けました。約20年間史跡を整備し続けている「王仁塚の環境を守る会」によると、今では伝王仁墓を訪れる人は年間5000人。1999年には、当時の金鍾泌首相も参拝しました。
 同会会長で百済門建設の呼び掛け人の一人、吉留一夫さん(72歳)は「建設を巡る共同事業で、日韓でさまざまな友情が生まれた。今後も王仁博士を通して交流が深まれば」と期待します。史跡を訪れる多くの韓国人の胸に、後年枚方の地が親しみを持って思い出されるのではないでしょうか。
 「確たる実態のないものを活用するには無理がある」で終わらせては、何も生まれません。王仁博士が枚方で葬られたという確かな記録は存在しませんが、博士と枚方が無縁だったという記録もないのです。
 史実と想像力、どちらをないがしろにしても観光宣伝は成り立たないのではないか――。取材を通し、そんな事を考えました。観光資源を最大限に活用し、交流を続ける枚方の人たちの熱意と〈遊び心〉に、心からエールを送ります。


A列車で行こう
  9・11 ニューヨーク追悼ジャズコンサートで
      
平成18年10月1日号



  

 「みんな、同じ列車に乗った気分で行きましょう」。9月13日、枚方市市民会館(枚方市岡東町)で米同時テロの犠牲者を悼む「9・11ニューヨーク 追悼ジャズコンサート」が開かれ、最後の曲を前に女性歌手がそう聴衆に呼び掛けました。曲目は、ニューヨークの地下鉄を舞台にした「A列車で行こう」。
 aハーレムのシュガーヒル方面に行くのなら、北行きのA列車に。乗り損ねると、ハーレムへの近道を逃してしまいますよ。急いで。もう列車がやってきます。ほら、レールのハミングが聞こえるでしょう――。
 軽快なスイングと共に、こんな歌詞が歌われます。デューク・エリントン楽団によりこの曲が生まれたのは、第2次世界大戦中の1941年。たわいない内容の曲に、今回の主催者らはさまざまな思いを込めました。
 同市のジャズバンド「枚方ジャズメッセンジャーズ」のドラマー・柏原八美さん(70歳)は2001年9月の米同時テロの翌年から毎年追悼コンサートを開き、この曲は必ず最後に入れます。「地下鉄は、ニューヨークの日常風景。その日常の中で、突然テロに巻き込まれた犠牲者への哀悼の意を込めて」と理由を語ります。
 テロの翌年3月、寝屋川市内に念願のライブハウスを開店した柏原さん。事件が風化しないように、そして長年抱き続けた地へのあこがれを込め、店名を「ニューヨーク」とするほどの思い入れです。
 今年は関西で活躍するバンド「朝倉聖とジャズメッセー」も、無償で応援に駆け付けました。ドラマーの朝倉聖さん(57
歳)は、本場の音楽を聴くためニューヨークを2度訪れたと言い、「こんな形で追悼行事に参加できるのは、音楽家としてうれしい限り」と語ります。
 本番は平日の昼間、しかも雨天にもかかわらず、約1000人の市民が会場に詰め掛けました。黙とうの後、2バンドで「この素晴らしき世界」「虹の彼方に」などを演奏。最後に「A列車で行こう」が競演され、聴衆は手拍子を取ったり立ち上がって踊り始めたりの盛り上がりでした。
 世界貿易センタービルでの死者・行方不明者2700人余りの多くが、日常生活で使ったであろう地下鉄。会場に集まった全員がその音楽を聴きながらニューヨークを思い、そこで亡くなった人たちを思う。あの2時間余り、会場にいた人たちは、確かにみんなで同じ列車に乗っていました。
   ◇    ◇
 最後になりましたが、9月1日付けで枚方支局に赴任した私の自己紹介を少々。19歳まで広島市で育ち、米国・イリノイ州にある小さな町で大学時代を過ごしました。新聞社に入社後は福井支局を起点に阪神支局を回り、枚方市へ巡ってきました。気が付くと34歳。少しぼんやり者ですが、人への好奇心が旺盛な限りこの仕事を続けていこうと思っています。よろしくお願いします。


タイの図書館に込められた思い
  長尾西中の取り組みから      
平成18年9月1日号



  枚方市立長尾西中学校が、創立20周年の記念事業として、タイにあるミャンマー難民キャンプに計画していた図書館が、5月に開館しました。事業を手がけた社団法人「シャンティ国際ボランティア会」によると、全国の中学校でも大変珍しい試みだそうです。
 取り組みは、アジアには様々な理由で学ぶ場のない子どもたちが多くいることに胸
を痛めた大山哲生校長が、PTAに働きかけたのがきっかけで始まりました。そして、同社団法人と協力し、図書館を建設する話を具体化させました。大山校長は「生
徒たちに記念品を渡すよりも、目的がはっきりして、有意義だったのではないでしょうか」と振り返ります。
 事業費は総額115万円ほどで、PTA会費の記念行事積立金から捻出しました。図書館は、難民を受け入れているタイ政府の方針で、恒久的な建物を建築することが認められず、ユーカリと竹を使用。108平方メートルの平屋で、420冊のカレン語やビルマ語の蔵書があります。また、難民の中から2人を図書館員として採用し、この費用も当面、長尾西中学校が負担するそうです。
 現地スタッフの話では、開館日の5月18日には、約150人の難民の子どもたちが集まりました。そして、子どもたちがカレンの伝統舞踊や楽器演奏を披露し、新しい図書館員らが読み聞かせや人形劇を行って開館を祝いました。今では、子どもたちの新しい安らぎの場所として、児童館や地域のコミュニティーセンターとしても活用されているそうです。
 6月には、図書館を利用している子どもたちからお礼の手紙が届きました。
 「この図書館は、知識や適応力を豊かにしようとする子どもたちのエネルギーにあふれています」「長尾西中学校の親切に感謝しています。どうもありがとうございました」。
 中には「英語やビルマ語、カレン語の本を読んで、もっと知識を増やしたい。私たちは、教育なしには何もすることができないのです」と本の寄贈を依頼する手紙もありました。
 大山校長は、「これは心のプレゼント。子どもたちの学ぶ意欲をひしひしと感じます」と話します。事業を引き継いだPTA会長の高光幸治さんは、「子どもたちにグローバルな感覚を身につけてもらうのに、よい機会になったのでは」と手応えを感じている様子でした。
 10月5日の文化祭には、現地のスタッフの講演会が開かれるそうです。生徒たちも世界平和を祈り、絵本「地雷より花をください」をテーマにした貼り絵を展示するそうです。
 取り組みの輪がさらに広がり、交流が発展することを願いたいものです。
 さて、私事ですが、9月から担当が北河内地域から大阪市役所に替わることになりました。地域のみなさんには大変お世話になりました。後任は阪神支局の坂木二郎記者です。今後ともよろしくお願いします。


戦後61年の夏に思う
  子どもたちの平和学習から 平成18年8月1日15日合併号



 枚方市の招提北中学校(田村一校長、372人)は夏休みの課題として、全校生が自分の「平和新聞」づくりに取り組んでいるそうです。広島や長崎への原子爆弾投下、沖縄戦、日中戦争、東南アジアとの関係――。生徒らは、戦争体験者から話を聞いたり、戦争遺跡を訪ねたりして資料を集め、画用紙に記事や写真を掲載し、10月の文化祭で校内に掲示するそうです。
 同校は7月上旬、NPO法人テラ・ルネッサンス理事長の鬼丸昌也さん(京都市伏見区)を招き、平和講演会を開きました。
 鬼丸さんは、大学時代にカンボジアを訪問して地雷の悲惨さを知り、平和の尊さを伝えようと'01年10月にNPOを設立しました。NPOの主な活動は、@カンボジアの地雷撤去や義足支援A小型武器規制のための働きかけB子ども兵の社会復帰に向けての心のケアや職業訓練C年間100回〜200回に及ぶ講演などです。
 アフリカ東部のウガンダでは、首都カンパラから車で6時間ほどの北部の街・グルで、内戦のために強制的に徴兵された子どもの心のケア、社会復帰をめざす職業訓練を行ってきました。
 同校では、この時の様子などを映像やスライドを使って、講演しました。
 映像では、中学生と同世代の14歳の少年が泣きながら「2人の人を殺した」と話していました。鬼丸さんによると、ウガンダでは毎晩4千人〜6千人の子どもたちが夜、反政府軍に誘拐されて無理やり兵士にされないように、安心して眠れる街を目指して、何キロも彷徨うそうです。しかし、とらわれた子どもは親を殺すように命令されたり、厳しい労働や暴力を受けて兵士にされたりしているそうです。
 鬼丸さんは、保護された「子ども兵」の心のケアとして、'04年から、日本の中学生や高校生のビデオレターや手紙を届けています。これは、「対等な心の交流」が大切ということで、遠く離れた国の子どもたちが同世代の悩みを知ることで、未来に目を向けるきっかけになるそうです。
 最後に鬼丸さんは、生徒たちに訴えました。関心を持ち、事実を知ること。未来のために自分ができることを続けてほしい。「私たち」ではなく一人ひとりの笑顔があふれる未来をイメージして行動してほしい、と。
 公演を聞き終えた生徒たちからは、「世の中にこんなに困っている子どもがいるのは知らなかった。自分の親を殺さなければならない現実がショックだった」、「人の心が乱れて戦争は起こる。全ての人の心が穏やかになり戦争のない世の中になってほしい」との感想が聞かれました。
 戦後61年の夏。私も含め、戦争を知らない世代が多数を占めるようになりました。
 各地で今も紛争が続いている現実を前に、私たちも家族や仲間と平和の尊さや今あることのありがたさについて、話し合ってみたいものです。


1200kmを越える恋
  北海道と枚方の交流イベントから 平成18年7月1日号



 6月初めに北海道の別海町の担当者が枚方市を訪れ、同町で行う交流イベント「菊
と緑の会inべつかい」の発表がありました。
 同町で酪農を営む男性のパートナー候補になる独身女性を募集するというもので、1984年に始まり、今年が23回目になる恒例イベントだそうです。
 しかも、始まったきっかけというのが、同町に嫁いだ枚方の女性が里帰りし、酪農の楽しさと後継者の嫁不足を訴えた、というもので、このイベントが縁で1987年に、およそ1200キロ離れた町は枚方の友好都市になりました。
 恥ずかしながら、北海道に行ったことがないこともあり、初めて聞く名前の町で、
早速、地図やインターネットで確認してみました。にわか仕込みの知識ですが、少し町のことを紹介してみましょう。
 町は、北海道南東部でオホーツク海に面し、根室市と隣接し、人口は約1万7000人。北方領土に最も近い町の一つで、面積はおよそ1320平方メートルで、香川県と同じくらいです。町名の由来は、アイヌ語の「ベッ・カイェ」(川の折れ曲がっている所)というところからだそうです。
 産業は、酪農と漁業がメーン。酪農では、広大な牧場で飼育される乳牛から牛乳やチーズなどの乳製品が生産され、漁業は、サケやマス、ホタテといった北海道を代表する海の幸の水揚げで知られるそうです。
 町内は、トドマツの森が海水の影響で、風化した白い木肌が林立する「トドワラ」
などの雄大な北海道の景色が広がり、写真を見るだけでも圧倒されます。
 今回のイベントの内容は、10月6日に伊丹空港を出発し、羽田経由で中標津空港へ。標津サーモンパークという所を見学し、町役場を表敬訪問し、歓迎会に出席します。翌7日は、交流会を開き、自由行動などを経て、宿泊はホームステイになります。8日は、代表的な味覚のサケを存分に味わえる「あきあじ祭り」を見物した後、野外パーティーなどをしてカップル成立を目指します。9日に帰宅するまで、3泊4日の日程になっています。交流会では、酪農体験なども予定されているそうです。
 参加費は3万円で、定員15人(応募多数は抽選)。申し込みは、8月8日までに、応募用紙に住所、氏名、電話番号などを記入し、枚方市文化観光課(072・841・1221)へとなっています。
 ちなみに、これまでに延べ492人の女性が大阪などからこのイベントに参加し、71組がめでたく結婚しているそうです。去年のイベントでも4組のカップルが成立し、うち1組が今年5月に結婚しているそうですから、なかなかの確率と言えるでしょう。
 自治体が、仲人役を務める事業は、各地にもありますが、これほどの「遠距離」はなかなかありません。しかし、長年の実績やその後の交流を見ると、枚方と別海町はよっぽどの良縁がある、と言えるでしょう。


身近な縁が語るもの
  環境保護の取り組みから 平成18年6月1日号



 「緑のカーテン」をご存じでしょうか。学校の壁にツル性植物をカーテンのように育てて夏の日差しを和らげ、植物の観察を通じて環境教育にも役立てるという取り組みです。植物の葉から水蒸気が出る「蒸散作用」とツルで作られる日陰で、室温の上昇や道路のアスファルトから立ち上る放射熱が抑えられ、窓や外壁などの表面温度も高くならないことから、冷暖房の使用を控えることもでき、地球温暖化防止に役立つそうです。
 2002年7月に全国の最高気温を2回記録した枚方市では、今年から蹉 西小、
西長尾小、樟葉幼稚園の3か所で始めました。5月中旬には、樟葉幼稚園の園児たちがプランター20個にゴーヤ30本とアサガオ15本の苗を植栽。縦2メートル、横7・2メートルの遊戯室の窓を覆うようにネットを張り、成長したツルをはわせるそうです。
 同様の取り組みは、各地で進んでいます。東京・板橋区では、区役所や小中学校の壁面に植物をはわせてクーラーの使用を控え、子どもたちが植物が成長する仕組みを観察し、実ったキュウリを食べるなど、環境学習に利用。京都市でも小中学校で行い、教室の温度が2度前後下がったそうで、大阪府立北野高校(大阪市淀川区)でも、名物だった校舎の外壁のツタを復活させました。
 また、東京・世田谷区の共同住宅では、コンクリート建物の地面から2階部分の外壁沿いに、ブルーベリーやリンゴなどの草木で建物を覆い、住民の話では「外で36度や37度になっても、部屋の中は28度前後になる」とか。
 1924年の完成当時から植えられた壁のツタで有名な阪神甲子園球場も、夏の直射日光を受けたコンクリート外壁は40度近くになるのが、ツタのラッピングで、約10度低いという実験結果があるそうです。ツタがびっしり茂った場所はまばらな所より3〜5度低く、壁のひび割れや、はく落なども少ないといいます。
 地面の大半が舗装され、エアコンの排熱などで気温が上がりやすい傾向にある都会の「ヒートアイランド現象」は以前から対策の必要性が指摘されてきました。
 枚方市でも「緑のカーテン」のほか、2004年から校庭の一部に芝生を敷き詰め
る「緑のじゅうたん」にも取り組んでいます。他地域では、群馬県館林市や東京・港区で街角に水をまく「打ち水作戦」を展開。下水を浄化処理した水、風呂の残り湯、雨水をひしゃくで一斉にまき、ヒートアイランド現象の緩和を目指しています。
 ほかにも、同じ東京の立教大学の学生が、シンボルの校舎のツタを地元商店街などと協力して、街角に移植したり、兵庫県加古川市では、建物の屋上などに太陽熱を吸収するコケを使って都市緑化を進めたりする取り組みもあるそうです。
 身近な緑の効果は、自然を守る大切さを教えてくれます。身の回りでできることから行い、その尊さをかみしめたいものです。


古の都・枚方を発信へ
  継体天皇即位1500周年記念の取り組み 平成18年5月1日号


 継体天皇をご存じでしょうか。
 生年は、古事記によると485年、日本書紀によると450年。応神天皇5世の孫とされ、近江国高嶋郷三尾野(現在の滋賀県高島市付近)で生まれ、幼い時に父を亡くし、母の故郷である越前国高向(現在の福井県坂井市)で成長したといわれます。第26代天皇として、越前(福井県)から迎えられ、507年に枚方市で、樟葉宮を開き、約4年間、滞在。樟葉宮の正確な場所は不明だそうですが、枚方市楠葉丘の交野天神社境内の貴船神社付近がその場所といわれ、ここには顕彰碑が建ち、府の史跡にもなっています。
 その後は、511年10月、筒城宮(現在の京都府京田辺市)、518年3月、弟国宮(現在の京都府長岡京市)、526年9月、磐余玉穂宮(現在の奈良県桜井市)と都を替えていきました。没年は、古事記には527年4月9日、日本書紀には531年2月7日または534年とされています。
 墓をめぐっても、諸説あり、茨木市の太田茶臼山古墳(前方後円墳・全長226m)と比定されていますが、近年は、高槻市の今城塚古墳(前方後円墳・全長190m)から、兵馬俑を彷彿とさせる埴輪群が発見されており、こちらを真の継体天皇陵とするのが定説になってきています。
 さて、枚方市は、1947年に人口約4万人の街として市になりましたが、来年はその60周年に当たります。
 そして、継体天皇が即位してから1500年の年でもあり、市は4月12日に地元の歴史愛好家らと記念事業開催実行委員会(会長・中司宏市長、24人)を設け、さまざまな事業を展開していくことにしました。
 メンバーは、地元の歴史愛好家らでつくる樟葉宮歴史懇話会(約230人)や8小中学校の校長、コミュニティー協議会の代表と、地域を挙げての参加となっています。
 実行委では、まず5月20日午後1時から、同市楠葉花園町の大阪歯科大楠葉学舎で、講演会(定員500人、参加費500円)を開くことにしました。
 テーマは「継体天皇はなぜ、枚方に都を置いたのか」。当日は、千田稔・国際日本文化研究センター教授や菅谷文則・滋賀県立大教授ら4人が、福井県の九頭竜川流域に暮らしていた継体天皇が、大和政権の豪族らに請われて即位したにもかかわらず、なぜその場所が大和盆地ではなく、枚方の楠葉地区だったのか――を探ります。申し込みは5月8日までに往復はがきで、同市文化観光課(@072・841・1221)で受け付けているそうです。
 実行委では、その後も来年2月には歴史フォーラムやパンフレットの作成、東京でのPR作戦を展開することにしています。各地にさまざまなゆかりがある継体天皇を通じて、古の都という、枚方の側面を改めて見直す機運が地元で高まり、全国にその情報が発信されることを期待したいと思います。


旧宿場町活性化の取り組みを見る 平成18年4月1日号


  江戸時代、宿場町として栄えた枚方市の枚方宿に残る町家を有効に活用しようと、地元の住民らが4月1日、「枚方宿町家情報バンク」を設立します。店舗や住宅として貸したい建物などを、このバンクに登録し、有効に活用していく取り組みで、同日午後2時45分から、市立枚方宿鍵屋資料館で設立記念フォーラムが開かれます。
 堤町や岡本町など枚方宿一帯は、京都と大阪の中間にあり、陸路と淀川を往来した三十石船を待つ宿場町として繁栄してきました。
 しかし、江戸―昭和初期に建設された町家は、市街地の開発などで、20年前の60戸から半減。旧街道沿いの約1・5q区間に残る30戸も、住民の高齢化などで空き家が目立ち始めました。
 こうした現状を受けて、「枚方宿地区まちづくり協議会」(平澤英正会長)が立ち上がりました。同協議会は、2000年6月に地元の自治会や商店会などの関係団体が設立。2001年3月には、地区内の建築行為などに対する住民共通の指針として、「街づくり協定」を結んでいます。
 また、2002年から毎年10月末から11月にかけて、旧宿場町を菊で彩る「街道菊花祭」、2年前からは、京阪枚方市駅や枚方公園駅、大隆寺などで、ジャズ演奏を行う「枚方宿ジャズストリート」を行っています。さらにガーデニングクラブを発足し、街道沿いに季節の花を植え続けており、こうした活動が評価され、日本観光協会の花の観光地づくり大賞や大阪府のまちづくり功労者賞、国の地域づくり表彰を受けました。
 今回は、情報バンクに登録する建物や土地を募集して、店舗や住宅などを活用したい人を探すことにしました。
 市はこれまでから、歴史的な景観にあった建物を改修する際、費用の補助を行っており、今後も、こうした枠組みを生かして、住民らの取り組みを支援するそうです。
 以前、歴史的な景観が残る各地の取り組みを取材したことがありますが、どこにでも共通しているのが、自分たちが生まれ育った街への愛着と、新しい交流をこれから育てていきたいという、住民や関係団体、行政担当者の強い思いです。保存と活用のバランスをとるのは困難も伴いますが、長い目で、できることから始め、続けていくことが大切です。
 白壁の町並みが残る岡山県倉敷市では近年、長年家の中に眠っていた屏風を一斉に店先や民間の玄関に並べる催しを復活させました。住民のちょっとしたアイディアが街を元気づけるきっかけになったそうです。
 また、京都では町家を飲食店に改装して人気を集めたり、大学生の下宿に貸し出したりするなど、伝統的な建物が近年、再評価されています。
 枚方でも、潜在的な魅力に光を当て、旧宿場町のかつてのにぎわい復活を目指すこの取り組みの輪を広げていってもらいたいと思います。


体験が伝えるもの 戦没者の妻たちの手記を読む 平成18年3月1日号


 昨年は、終戦60周年の年でした。
 これを機に、枚方市遺族会(山口亨会長、1048人)が、昨年秋に戦没者の妻23人の体験を冊子「遺家族の歩み」(B5版、24ページ)にまとめました。
 会員の高齢化が進む中、戦争が残したものを風化させないようにと、女性たちが当時を思い出しながら筆を執ったもので、読売新聞の紙面では2人の女性の体験を紹介しました。
 村島敏野さん(89
歳)と赤井恵美子さん(79
歳)で、村島さんは、サイパンで亡くなった夫の遺骨が帰らないまま、子どもら家族5人を養うため、空襲の中、背中に木の葉の付いた枝を背負って体を隠しながら畑を耕しました。赤井さんは、戦地で病気になった夫と子ども2人のため、慣れないうどんの行商などで家庭を支えたそうです。
 戦地に夫を見送り、子どもたちの命を守りながら懸命に生きた女性たちが60年を振り返ってまとめた手記は、戦争を知らない私たちの胸に迫るものがあります。
 ほかに幾つか紹介してみましょう(年齢は執筆当時に統一しています)。
 今井米子さん(91
歳)は、3人の幼い子どもと満州(現中国東北部)から着の身着のままで引き揚げて間もなく、夫の戦死を知りました。カイコ小屋で暮らしながら、
田畑や行商に汗を流しました。しかし、不安にかられ、田の中で一人で泣き、子ども3人を引きずるようにして線路に向かった事もあったそうです。
 青木アヤノさん(84
歳)の夫は、1944年、ニューギニア島に上陸する直前、潜水艦の攻撃を受けて沈没し、出征から2か月で亡くなりました。
 青木さんは、夫の死を知らされず、終戦後の'46年になって葬儀を挙げたそうで
す。「あれからもう60年、がむしゃらに歩いてきた『道』が走馬灯のように思い出されます」と振り返っています。
 つらい体験を切々とつづる執筆者たちですが、文章の最後には、多くの人が「今あることの感謝の気持ち」や「平和への願い」を記しています。
 「年も老い、やっと心の平安も取り戻し、一番楽しい日々です」。
 「娘夫婦と3人の孫たちに囲まれ…花を作り野菜を作れる…幸せに過ごすこのごろです」。
 「小さな幸せがいつまでも続きますように…子ども・孫の代まで私のようににがい苦しい事ばかりの生活は二度と来ませんように」。
 戦後60年がたった今も、世界各地でテロや紛争は絶えません。国内では、子どもを狙った犯罪も相次いでいます。先人が築いた平和な日本で、なぜ多くの命が奪われていくのか。戦没者の妻たちの手記を読み返し、そんな思いが強くなりました。
 3月1日を「平和の日」としている枚方市は、中央図書館で市民から寄せられた戦争資料を展示しています。平和について改めて考える機会にしたいものです。


広がれ支援の輪 平成18年2月1日号


  1月15日、枚方市民会館で、2004年12月のインドネシア・スマトラ島沖地震・津波の被災地を支援するチャリティーイベント「インドネシア&ジャパン・イン・枚方」が開かれました。当日は、地元小学生や両国の親を持つ子どもたち、同国の歌手など10組が、バリ島の舞踊や伝統音楽演奏、コーラスなどを披露しました。
 イベントを主催したのは、戦前に同国で生まれた枚方市翠香園町の美容師、藤野房子さん(69
歳)。藤野さんは、父・可護さん(故人)が1904年、17歳で同国に渡った事で、スマトラ島近くのバタム島で生まれ、戦局の悪化で、すぐに帰国したそうです。2002年には、可護さんが19年がかりで編集したマレー語辞書や現地の写真を地元の関西外大に贈ったり、昨年は同国の独立60周年記念式典に招かれたりするなど、両国の交流を推進しています。
 今回のイベントは、「母国」の惨状に胸を痛めた藤野さんが、去年の春から、地元の
関西創価小や蹉 中、香里丘高、同国の総領事館などに呼び掛けて準備しました。入場料2200円は、被災地支援に役立てられるそうです。
 藤野さんは、小学生の時の1946年、和歌山県那智勝浦町で昭和南海地震を体験しました。津波の流木でけがをした人や家屋の浸水などの被害を目の当たりにし、地震や津波の恐ろしさを実感したそうです。そうした経験もあって、「何かをせずにはいられなかった」、と話しています。
 思えば、阪神大震災を始め、近年は、各地に被害をもたらした台風被害や新潟県中越地震、アメリカのハリケーン、パキスタン地震と世界各地で自然災害が相次いでいます。それぞれの被災地を支援するとともに、私たちも普段から災害への備えをしておく事が大切です。
 府内でも活断層(上町断層系、生駒断層系、有馬高槻構造線、中央構造線)による
直下型地震のほか、今後30年間の発生確率が50〜60%とされる東南海・南海地震などに備え、職場や家庭での防災体制の整備が急務になっています。
 津波の威力を弱める防潮堤や建物の耐震化といったハード面の整備も大切ですが、何と言っても各自が防災意識を高める事が重要とされています。
 地震が起これば、どこを通って、どこに避難すればいいのか、非常時の持ち出し品の備蓄は大丈夫かという、いざという時の準備のほか、枕元に物が落ちてこないようにしたり、懐中電灯の準備やガラスを踏んでもけがをしないようにスリッパを置いたりと、身の回りの事も再点検する必要があります。
 また、減災に威力を発揮するのが、近所の助け合いです。枚方市内でも1月20日に自主防災組織のネットワークを強める会議が開かれるなど、取り組みが進んでいますが、支え合う気持ちを大切にし、地域全体で「防災力」を高めていきたいものです。


新たな目標に向かって 市民が主役の明るい年に 平成18年1月1日号


  新年明けましておめでとうございます。今年も「取材ノートから」では、地元の話題を中心に、さまざまな事を記していきたいと思っています。身近な情報もどんどんお寄せください。よろしくお願いします。
 振り返ると、昨年はさまざまな事がありました。2月には寝屋川市で教職員3人が殺傷される事件。4月にはJR福知山線の脱線事故。広島や栃木、京都で小学生が殺害される事件が続き、子どもの安全を地域や学校、家庭でどう守るかが問われています。世界各地では8月にアメリカのハリケーン、10月にパキスタンの地震と、自然災害が相次ぎました。
 一方、スポーツでは、サッカー日本代表が今年ドイツで開かれるワールドカップ出場を決定。阪神タイガースのリーグ優勝や横綱朝青龍の7連覇もありました。ほかにも愛知万博や衆院選、アスベスト問題、マンションなどの耐震データ偽造問題など、さまざまな事が浮かびます。
 枚方市に関係するニュースは、どうだったでしょうか。1月には全国高校ラグビーで啓光学園が4連覇を達成しました。4月には中央図書館や京阪のくずはモールのオープン、淀川河川敷であった「全国みどりの愛護のつどい」には皇太子様も出席されました。7月には地元の枚方スイミングスクールの中西悠子選手が世界選手権で2大会連続銅メダル。12月には96年の歴史を持つひらかた大菊人形が閉幕しました。
 そうした中、10月にはこれまでにない取り組みがありました。中司宏枚方市長が2003年4月の市長選で掲げた政策「枚方版マニフェスト」を市民が検証しようという大会です。北大阪商工会議所などが新町のメセナひらかたで開き、商工業会や大学院生など市民代表5人が、道路網整備や人件費削減など77項目にわたるマニフェストの達成度などを20項目にわたって200点満点で評価しました。
 市商業連盟の藤田二郎副理事長は「他市に先駆けて作られたのは評価するが、市民に周知されているか疑問。施策に必要な費用の調達方法にも触れるべき」と133点をつけました。市民団体「ひらかた環境ネットワーク会議」の丸井晶子副会長は「環境問題は具体性に欠けるものが多く、調査後の政策をどうするのかも含めてほしい」と129点。5人の平均点は125点と少し辛口で、137点と自己評価した中司市長は「厳しさの中にもっともな意見が多く、ローカルマニフェストが行政を変えていくことを実感しました」と話していました。
 こうした市民の新たな活動が今年も広がる事を期待します。
 何にでも当てはまることかも知れませんが、目標や計画を立て、それがどのように進み、どこまで達成できているかを確かめる事も大切です。
 今年は、どんな人が活躍するのでしょうか。そんなことを考えながら、私も新たな目標を探したいと思います。


最後のひらかた大菊人形
  96年の歴史の先
 平成17年12月1日号


  今回で96年の歴史を閉じる「ひらかた大菊人形」が、近年にない来場者でにぎわっているそうです。
 「ひらかたパーク」によると、9月30日の開幕以来、11月17日までの「大菊人形」の入場客数は、約33万8000人と、昨年同期の倍以上。毎年訪れる人、最後と聞いて初めて来た人、久しぶりに訪れた人とさまざまで、多い時では、4時間待ちの行列ができるとか。波及効果で、近くの枚方宿鍵屋資料館の入館者も増えているそうです。
 「大菊人形」は、1910年(明治43年)、寝屋川市の香里遊園地(廃園)で始まりました。以後、会場を変えながら、第2次世界大戦中の44、45年を除いて開かれ、49年からひらかたパークで実施、関西の秋の風物詩として親しまれてきました。国内で最も歴史が古く、規模も最大級とのことですが、入場者数の減少や人形師・菊師の後継難などから、今年で見納めとなりました。
 今回は「義経」をテーマに、8万株の菊を使い、弁慶と対決する「五条大橋」や義経を思い、静御前が舞を披露するシーンなど9場面で41体を展示しています。恥ずかしながら、実は開幕時に取材で初めて訪れたのですが、色とりどりの菊をまとった精巧な人形が演出する歴史の一場面に職人芸の粋を感じながら見入りました。
 一方、閉幕決定を受け、枚方市は、菊文化の継承に本格的に乗り出しました。これまでは、後方支援≠ェ主でしたが、菊は「市の花」でもあり、今後は主体的な取り組みとして、まず親子での菊付け体験や見学ツアーなどを開きました。
 10月下旬からは、恒例の「ひらかた菊花展」を市民会館周辺で実施。これに合わせて、旧街道沿い約1キロメートルにも菊が飾られ、ジャズ演奏イベント「枚方宿ジャズストリート」もありました。
 また、来年には市民が参加する「ひらかた菊人形製作技術伝承会」を結成し、菊師を招いた菊人形作りや農家の高齢化で存続が危ぶまれている人形菊の栽培などを進め、技術の継承に取り組むそうです。市では、将来、公園内にとどまっていた菊人形を旧宿場町に展示するなどして、機運を高めたいとしています。
 盛況に沸く「大菊人形」ですが、期間中の11月15日、約50年前から枚方に訪れ、作業に携わっていた菊師の長谷川美好さんが73歳で亡くなられました。今年も開幕前から作業されていましたが、10月中旬に体調を崩され、愛知県の自宅に戻られてから1か月後のことでした。荷物は枚方の宿舎に残したままだったそうです。最後の菊人形の閉幕を前に病床の長谷川さんはどんな思いでおられたのでしょう。
 さまざまな人の思いがこもった「大菊人形」は、12月4日が最終日。
 長谷川さんたちが守り、枚方で開いた菊の文化を今度は、市民が引き継ぐ番です。


「枚方の財産は人」
  市民活動の広がりに期待
 平成17年11月1日号


  初めまして。9月に枚方支局に転任してきました。こちらの方は今回が初めてとあって、今も人と地名を覚えるのにひと苦労の毎日です。
 自己紹介しますと、1997年に入社し、大阪で研修した後、初任地は日本海に面した兵庫県豊岡市へ。城崎などの温泉、但馬牛、出石そば、松葉ガニが有名で、9月には国の特別天然記念物のコウノトリを野生復帰させるための放鳥が行われました。市内には「こうのとりスタジアム」という球場もありました。
 その後は、瀬戸大橋が架かる岡山県倉敷市に。こちらは、江戸時代の街並みが残る美観地区や国内有数の工業地帯「水島コンビナート」、倉敷チボリ公園などが街の
顔。ちなみに市内にある球場の名は、「マスカットスタジアム」でした。
 それから、太平洋に面した和歌山へ。球場名は普通≠ナしたが、マグロや有田みかん、梅干しなど、海や山の自然の恵みを満喫できる土地柄でした。
 日本海、瀬戸内海、太平洋の3つの海を経て赴任したのが、淀川に面した枚方です。着任間もないころ、ある方と昼食中、こんなやりとりがありました。
 「枚方の名所や特産は何ですか」
 「そうですねぇ、菊人形、淀川。あとは旧宿場町もあります」
 「食べ物で言うと」
 「河内そうめん、というのがありますね…」
 「地元の特産」と聞かれ、皆さんは何を挙げますか。長年、地元にいるその方も改めて聞かれて少し考え込んでいらっしゃいました。
 そんな折、地元の公民館で開かれている人形劇の講座が今年30年を迎えた、という話を聞きました。ほかの自治体では、なかなかないことだそうで、何度か存続の危機を迎えたそうですが、今では17のアマチュア劇団が育ち、関西有数規模の「ひらかた人形劇フェスティバル」などで活動の成果を披露している、とのことでした。
 先ほど特産品問題≠話していた方に伝えると、「そうですね。市民活動は結構盛んかも知れません」との声が返ってきました。聞いてみると、市役所には市民活動課というのがあり、2001年に市が開設した「ひらかたNPOセンター」の登録団体は、放置自転車をリサイクルしたり、身体障害者を支援したりと、福祉や環境など187団体になり、身近な活動をしているのは2000団体にも上るそうです。
 大阪のベッドタウンとして開けてきた枚方。古くから住む人や、私のように最近やって来た住民が交わるこの街の大きな財産の一つは人≠ニ言えそうですね。
 市民の皆さんが活動の輪を広げ、新しい街の歴史を作っていく。そんなことを考えながら記事を書いていきたいと思います。皆さんもいろんな枚方の魅力を見付けたら、新米市民の私に教えてください。


守れ!子どもたちの安全
 校内に児童たちの元気な声を響かせよう
 平成17年10月1日号


 今年2月に、教職員殺傷事件が起きた寝屋川市立中央小学校の校舎内に、アメリカ・ニューヨークの小学生たちが「夢と希望」をテーマに描いた絵や写真約300点が展示されています。
 同小学校に勤務する男性教諭の教え子で、現在はニューヨーク工科大大学院に在学し、芸術家を目指しているという寝屋川市出身の男性(25歳)が企画したものです。
 男性は現地の新聞で事件を知り、掲載されていた写真に、恩師である男性教諭の姿を見付け、教諭が中央小学校に在籍していることを知ったそうです。2年ほど前に、中央小学校で学童保育のアルバイト職員として働いていたという男性は、恩師がいる小学校の児童たちを元気づけようと、ニューヨークの小学校を訪れて、子どもたちに絵を描いてもらったそうです。
 この恩師を通して、男性は小学校側に、絵の展示を申し入れて実現しました。男性は、現地の小学生たちに描いてもらった絵を集めて帰国した後、8月18、19両日に、家族らと一緒に小学校を訪れて、廊下や掲示板に絵を張っていったそうです。
 廊下や掲示板などに所狭しと飾られた絵には「天使」や「大きなハート」「流れ星」「日の丸」などが描かれており、「Love you Japan」「Peace on Earth」といったメッセージも書かれていました。子どもたちの絵と一緒に、男性が自ら撮影したニューヨークの街並みの写真も張られています。
 来校した際、男性は「絵は万国共通。同じ小学生たちから発せられた生き生きとする心を、中央小学校の児童たちにも感じ取ってもらいたい。そして夢と希望を持ち、それに向かって頑張り、成長してほしい」と話していたそうです。9月1日の始業式では、男性からのメッセージビデオが流され、男性は「この絵を見て、何か感じてください」と、児童たちに呼び掛けたそうです。
 私もこの日、展示されている絵などを取材するため、中央小学校を訪ねました。事件後初めて校舎内に入ることに正直、少し複雑な思いが込み上げてきました。しかし、そんな思いも児童たちのはしゃぐ声に吹き飛ばされました。と同時に、ホッとしました。
 校長先生は「男性には、子どもたちのことを気遣ってもらい感謝している。子どもたちには、前向きに頑張ってもらいたい」と話していました。絵などはしばらくの間、展示されるそうです。
 校内で児童たちの元気な姿や明るい笑顔を見て、改めて思いを強くしました。「みんなで、子どもたちを守らなければいけない」。
 このたび9月12日をもって、広島総局へ異動となりました。1年間という短いお付き合いでしたが、つたない記事を読んでいただき、ありがとうございました。後任は、和歌山支局の森秀和記者です。引き続き、よろしくお願い致します。


交野の「紙好き交流センター」などが 絵はがき作り
  阪神大震災で受けた支援と激励への恩返し
 平成17年9月1日号


 障害者らに紙すきの技術を指導している交野市の「紙好き交流センター麦の会」と、福祉作業所を支援するNPO法人「みゅうくらぶ」が兵庫県の作業所などと共同して、紙すきによる絵はがき作りに取り組んでいます。
 昨年10月に起きた新潟県中越地震で被災した作業所を支援するためで、今年4月から絵はがきを販売して、売り上げの一部を基金として積み立てて寄贈するそうです。
 1995年1月に起きた阪神大震災での被災をきっかけに交流センターを立ち上げた代表の奥上陽一さん(55歳)は「阪神大震災で受けた激励や支援への恩返しと、震災から10年がたち、『僕たちも今、頑張っているんだ』という姿を新潟の作業所などに見せて、元気付けたい」と話しています。
 奥上さんは13年ほど前から、関西の作業所で紙すきを指導してきました。阪神大震災で被災した際には、その作業所から「紙すきを頑張ってほしい」といった励ましを受け、〈人とのつながり〉の大切さを痛感したと言います。1998年に交流センターを設立し、恩返しとして、全国の作業所で紙すきの技術指導を続けています。
 震災から10年を前に、別のかたちでの恩返しをと、新潟の作業所への支援を模索していた奥上さんと交流センター職員、河田里江さん(40歳)は絵はがき作りを考えていました。
 2人は昨年11月に知り合ったイラストレーターで絵ことば作家のたかいたかこさん(45歳・吹田市在住)に、その思いを伝えて絵はがきの構想を話し、「協力する」との返事をもらったそうです。神戸市内と淡路島の作業所の協力があり、本格的に作業が始まりました。
 たかいさんが考案したキャラクター「たまわりちゃん」は、顔は淡路島の特産品タマネギを、体は瀬戸内海の波を、それぞれイメージして描かれているそうで、はがきには「ありがとう」「ココロから」など被災者の感謝の気持ちを表した言葉が添えられています。
 はがきは兵庫県の作業所で製作し、キャラクターと言葉を枚方市内の作業所で印刷し、交野市の交流センターで袋詰め作業を行って発送しています。
 基金は今後、自然災害で被災した作業所などに対しての支援用に積み立てていくそうです。奥上さんは「福祉施設が、被災などした別の福祉施設を支援できるような体制にしていきたい。それが本当の意味での、『福祉の自立』につながるはずだから」と話します。
 河田さんは「協力してくれている作業所がほかの作業所の目標となり、『自分たちも頑張れば、こんなことができるんだ』と思ってもらえるようになれば」と、期待しています。
 絵はがきは、5枚1セットで送料込みの1000円(税込み)。注文と問い合わせは、「紙好き交流センター麦の会」(@072・893・9620)へ。


平和を訴えかける戦闘機の残骸 
 
交野市で戦後60年目の発見 平成17年8月1日15日合併号


 「残骸といっても、私にとったら、兄貴の肉体そのものです」。この言葉が胸に重く響きました。
 今年3月、交野市星田北の第2京阪道路の建設現場から機関銃や戦闘機のプロペラなどが見つかりましたが、交野市の資料などから、鹿児島市出身の中村純一少尉(当時23歳・戦死後、中尉に昇進)が搭乗していた戦闘機「飛燕」とみられる残骸であることが分かりました。
 中村中尉の弟、三郎さん
(80歳・鹿児島市在住)は冒頭の言葉に続けます。
 「掘る所が少しでもずれていたら、見つからなかった。神様の啓示だと思って感謝します。兄貴自身も喜んでいると思います」。
 今月15日で戦後60年を迎えます。中村中尉の〈平和への思い〉が、戦闘機の残骸を遺族に引き合わせ、われわれに反戦平和の大切さを伝えてくれたのではないかと感じます。
 交野市教委が編集した「星田歴史風土記」などによると、1945年7月9日、大阪を攻撃しようと硫黄島から離陸した米戦闘機を迎撃するため、伊丹飛行場から飛燕が飛び立ちました。しかし、この戦闘で、中村中尉の戦闘機を含め3機が撃墜されました。
 この日午後0時10分ごろ、中村中尉が乗った戦闘機は、現在のJR星田駅北側の上空で撃墜され、中村中尉は脱出しましたが、米戦闘機にパラシュートのひもを切断され、そのまま水田に墜落して亡くなったといいます。村人らによって洗い清められた中村中尉の遺体は寺に安置され、お通夜が営まれたそうです。
 中村中尉は自分に厳しく、寡黙で律儀な人物だったといいます。三郎さんは「『自分と同じ中学に入れ』とハッパを掛けられ、小学生のころから『勉強しろ』と尻をたたかれた」と話し、「夜遅くまで勉強を教えてもらった」と懐かしんでいました。
 中村中尉は大学時代にはよく山に登り、写真を撮っていたそうです。将来は北海道で牧場を経営したいという夢を持っていたそうですが、1943年の学徒出陣で出兵。三郎さんによると相思相愛だった女性もいたそうです。
 中村中尉の遺品ともいえる残骸と対面した三郎さんは「戦後60年目の節目に見つかるとは感無量です」と、感慨深げに話していました。
 これからの平和教育の教材として生かしたいという交野市の要望を受け、発見された20o機関砲(全長約145p)と12・7o機関銃(同約125p)、プロペラやエンジンの一部などは7月5日、国土交通省近畿地方整備局浪速国道事務所から交野市へ移管されました。
 これらは、今月14日から市立総合体育施設(同市向井田)で展示されます。三郎さんは「多くの人に残骸を見てもらい、戦争の厳しさや悲惨さを感じてもらえれば」と話しています。
 平和の素晴らしさをかみしめると同時に、改めて将来の平和を誓いたいと思います。


「ひらかた大菊人形展」が今秋で打ち切り
  鮮やかな菊による華麗な歴史絵巻も今年で見納め
 平成17年7月1日号


 枚方市の遊園地「ひらかたパーク」で毎年秋に開催されていた「ひらかた大菊人形展」が、今秋で打ち切られることが決まりました。菊人形を制作する職人「菊師」の高齢化と後継者不足のためで、今後、これまでの規模や内容の菊人形展を維持していくのが困難だと、パークを運営する京阪電鉄が判断したそうです。菊人形展は枚方の秋の風物詩として、多くの人々を魅了してきました。私も幼いころ、両親に連れられ、何度となく見に行ったものです。その菊人形展が95年の歴史に幕を閉じるのは非常に残念です。
 菊人形展は、京阪電鉄が天満橋〜京都・五条間の営業を開始した1910年(明治43年)に寝屋川市の香里遊園地(廃園)で始まりました。関西で初めての本格的な菊人形という物珍しさから大成功を収めたそうです。2年後には枚方へ移り、電気仕掛けの場面転換や斬新な演出と規模で、「ひらかた大菊人形」の名は全国に広まったそうです。
 その後、京都・宇治や枚方などで開催され、第2次世界大戦の影響で、2年間(1944〜1945年)の中止はありましたが、地元からの要望を受け、1949年から再び枚方で実施されるようになりました。1964年からNHKの大河ドラマをテーマに制作され、今年で94回目を迎えました。
 最盛期の1970年代半ばには約80万人がひらかたパークを訪れ、約20人の菊師でおよそ100体の菊人形を作り、約30シーンを演出したそうです。この高い芸術性と素晴らしい伝統技能が評価され、1999年には日本の園芸文化の代表として、アメリカ・ペンシルベニア州の植物園に招待され、菊人形を出展。翌年には菊師の頭領が労働大臣表彰を受けるなど菊人形の文化的価値は広く認められています。
 ところが、最近では菊師の高齢化が進むとともに、菊師として1年を通じて活動ができないことから後継者が育たず、60〜70歳代の3人の菊師に頼らざるを得ない状況が続き、昨年は約40体9場面の構成となり、入園者も約35万人だったそうです。
 昨年、菊師の1人が健康上の不安を理由に引退を申し出たため、京阪電鉄は今後の継続は難しいと判断して、菊人形展の廃止を決定したそうです。伝統文化として菊人形の継承を支援している枚方市の中司宏市長も「今回の決定は大変残念。今後は、市民とともに新たな菊文化をつくっていきたい」と話しています。
 来秋以降のイベントは未定だそうですが、京阪電鉄は「菊を使った催しは続けていきたい。菊人形がなくなるのは寂しいですが、これに代わる魅力あるイベントで盛り上げていきたい」と話しています。
 今年の菊人形展は「義経」をテーマに、9月30日〜12月4日まで開かれます。最後の華麗な〈歴史絵巻〉を楽しみたいと思います。


枚方、交野で交通死亡事故が多発!ちょっとしたミスが取り返しのつかない大事故に 平成17年6月1日号

 枚方署管内(枚方、交野両市)での交通死亡事故が多発しています。昨年の管内の交通事故死者数は13人(前年9人)でしたが、今年は既に6人(5月18日現在)が亡くなっているそうです。
 2003年12月から交通事故による死者がゼロだった交野市では、春の全国交通安全運動期間(4月6日〜15日)中に、死者2人を出したため、同市は4月19日に、「交通死亡事故多発非常事態宣言」を、同じく運動期間中に2人が死亡した枚方市も「交通死亡事故多発警報」を発令していました。
 枚方市では昨年12月初旬に、交通死亡事故が前年(6件)の2倍を超える13件に上ったことから、「交通死亡事故多発非常事態宣言」を発令していました。
 現在、両市共枚方署と連係して死亡事故の防止に努めています。具体的には、鉄道の駅や街頭などに、啓発用の「のぼり」を設置し、広報車で交通事故への注意を呼び掛けています。枚方署も▽飲酒運転▽信号無視▽速度違反…の取り締まりを重点的に実施し、検問も強化しています。
 4月15日には、交通事故で死亡した犠牲者のめい福を祈ろうと、枚方署などが交通事故犠牲者慰霊碑(枚方市長尾峠町)で「献花式」を行い、出席した遺族ら約30人が死亡事故の撲滅を誓いました。慰霊碑は1955年に建立され、77年から交通安全運動期間中の毎年春と秋に献花式を行っているそうです。このような取り組みが、交通死亡事故を減らす一歩だと思います。
 枚方署の中川修身署長は式で、犠牲者の名前を一人ひとり読み上げて「尊い犠牲を無にしないよう、交通事故のない安全で安心な街づくりのために努力します」と決意を示しました。
 9年前に20歳の息子を亡くしたという女性(57歳)は「息子がかわいそうだし、今はただ寂しい。自分も運転するので、加害者にも被害者にもなり得る。毎年献花式に出ることで、改めて安全を心掛けている」と話し、18歳の息子を亡くした女性(57
歳)は「ちょっとしたミスで、取り返しのつかない交通事故が起きてしまう。死んでしまった息子の無念はもちろん、残された家族の悲しみは大きい」と涙ながらに語っていたそうです。
 事故を防ぐには、運転する側はもちろんですが、交通ルールを守ることが大切です。しかし、自分がルールを守っていたとしても、何らかの要因で自動車やオートバイが〈凶器〉として、自分に襲いかかってくることがあります。それは、青信号の横断歩道を渡っている時かも知れませんし、自動車で安全走行している時かも知れません。
 また、最近では自転車による交通事故も増えてきています。危険はいろいろな場所、機会に潜んでいます。「自分が交通事故に巻き込まれる可能性はある」。そんな思いを常に持って、行動する必要があると思います。


環境を守ろう!〜小さな取り組み できることから 平成17年5月1日号

日本に1990年比で6%の温室効果ガスの排出削減を義務付けた「京都議定書」が発効して、2か月半がたちました。日本国内でも温暖化の防止や環境保全に向けたさまざまな活動が行われていますが、枚方市でも意欲的な試みが始まっています。
地球温暖化防止に家庭でも取り組んでもらおうと、2月から市のホームページに「Web版 ひらかた環境家計簿」が開設されたのをご存じでしょうか。
地球の環境と平和に取り組むNPO法人がインターネット上で運用している家計簿を活用した試みで、家庭から排出した温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)の排出量が自動的に計算されるなど、簡単に環境への貢献度が分かるようになっています。
枚方市では01年に冊子「ひらかた環境家計簿」を作り、無料配布してきましたが、CO2の排出量を自分で計算したり、記入項目が多いことなどから、簡単に取り組めるWeb版の開設を決めました。
Web版の家計簿では、当月の電気、ガス、水道の使用量を入力すると、自動的にCO2の排出量が計算され、瞬時に削減量などが分かる仕組みです。「マイアース」と呼ばれるページには、自分だけの地球≠ェアニメで表示され、毎月の排出量に合わせて変化します。排出量が少ないと、地球が緑豊かになり、増えるとガスが出たり動物が苦しんだりと、状態をチェックできるため、楽しみながら取り組めます。
また90年比のCO2の削減率と削減量が個人のエコパラメーターとしても示され、全国での順位も分かります。小さな取り組みでも環境保全につながっていきます。皆さんも参加してみてはどうでしょうか。登録は市のホームページからできます。
一方で、資源ゴミを再利用して、循環型社会を目指す活動が実を結んできています。自転車のリサイクルに取り組む枚方市のボランティアグループ「枚方エコサイクル」が再生させた自転車が1000台を突破しました。
保管期間が過ぎ、市が管理する放置自転車や古い自転車などをいったん分解し、再利用できる部品を選んで組み立てていきます。鍵やベルなどは新品を取り付けるそうです。
定年退職した会社員や公務員など15人が平日の午後、市の複合施設「サプリ村野」内にあるリサイクル工房で作業しています。部品一つひとつを丁寧に組み立てた自転車は安価(1台2000〜3000円)で販売され、市民らに大人気で、車種によっては抽選になるほどだそうです。
 代表の河上勲さん(64歳)は「これからも、どんどん自転車を組み立てて、みなさんに利用してもらいたい」と意気込んでいます。tel072(805)0103へ。


広がれ!障害者に優しい街づくりの活動〜進む車イスマップづくり 平成17年4月1日号

障害者に優しい街を目指して、守口市のボランティアグループと門真市の地域サークルが積極的に活動を行っています。
守口を拠点に活動する「ピースリーダー守口」は車いすで利用できるトイレを備えた市内の施設をインターネットで紹介する「守口市車いす対応トイレマップ Web版」の作成を2月からスタートさせました。障害者の外出を支援しようと昨年5月に作った冊子版をより多くの人に見てもらうため、Web版の製作を考えたそうです。現在、中高生や大学生ら約20人で作業を進めています。
冊子版を見た障害者や介護する人からは「出掛けるのが心強くなった」「マップがあると安心」や「とても便利だ」との声が寄せられ、「もっと欲しい」との要望が相次いだそうです。まだまだ障害者には住みにくい社会だと感じました。
山道俊一世話人代表(45歳)は「このマップを見て、障害者用のトイレを備えていない施設がトイレを設置しようと考えてくれれば。トイレができれば、障害者は喜ぶし、私もうれしい」と、マップの効果に期待しています。
そして、山道さんは「施設などの現地調査に参加することで、トイレの現状を知ってもらえれば、トイレは必要だという声が出てくるはず」と力を込め、マップ作りへの協力も呼びかけています。完成は10月ごろの予定だそうですが、1日も早く仕上がって、障害者らの心強い味方になってほしいものです。
一方、門真の「かどま〜る(門真市車イスMAPつくり隊)」は3月に、車いすで利用できる店を紹介した「門真市車イスMAP'05」を完成させました。
今回のマップは1999年に作成したマップの改訂版になりますが、2001年9月から製作を始め、3年半をかけて完成させた力作です。
飲食店やスーパーなどに出向き、段差やエレベーター、専用駐車場の有無、店員の対応などを丁寧に調べてくれています。きっと、車いすの人だけでなく、いろいろな人の役に立つ冊子になると思います。
取材をしながら、高校時代の自分の苦い経験がよみがえりました。大型書店の入り口前に車イスの男性がいました。入り口には少し段差があり、手で押すガラス扉が男性の前に立ちはだかっていました。男性の様子から店内に入ろうとしていることは分かりましたが、「押しましょうか」との一言が出ず、行動に移すこともできませんでした。
なぜ手助けができなかったのか、自分でもはっきりと分かりませんが、恥ずかしさと周りを気にしたんだと思います。書店に入ろうとした女性に車いすを押されて、男性は店内に入ることはできましたが、後悔と情けなさでいっぱいになったことを覚えています。
 「勇気を持って行動しよう」。取材を通して、そんな思いが強くなりました。


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